貴方は私を美しいと言う。
純粋で真っ白な、穢れを知らぬ人だと言う。
――本当の私を知ってしまったら、貴方は離れて行くのだろうか―?
■■ 月の無い夜 ■■
「月がないと、ホントに真っ暗だな」
新月の夜。
カカシさんは5日前から単独任務に出ている。
もう時刻は日付をとっくに越え深夜と呼べるものになっていた。
なんとなく眠る事の出来ないでいた俺は月の無い夜空を見詰めながらぼんやりと呟いた。
「カカシさん…今夜は帰って来ないのかな」
確か任務はAランクの暗殺任務。
受付所を通したものであったから、彼にしてみればそこまで難しいものではないのだろうけれど。
予定では今晩の帰還であったはず。
つまり、少々遅れている事になる。
ゾクリ、と背筋を悪寒が走る。
まさか、あの人に限って。
大丈夫。
ちゃんと帰ってくるって約束してくれたじゃないか。
そう自分に言い聞かせてみるけれど、忍である自分たちに100%の保証など何処にも無い事は16年前に身を持って知っている。
身体の内側から冷たくなっていく様な感覚にぶるりとその身を震わせた。
「大丈夫だって…絶対、帰ってくる…ッ」
ベッドの上で肩を抱いて蹲る。
たった5日間の任務だ。
帰還が数時間遅れているだけだろう?
こんな事で不安になっていたら、あの人の側にはいられない。
寒くもないのにガタガタと震えそうになる身体を押さえつけ、固く目を閉じた。
ああ、自分にもっと力があれば。
共に同じ戦場に立ち、共に戦える程の実力があったら。
そして彼に向かってくる敵を、この手で倒す事が出来たなら。
――俺はちっとも美しくなんかないんです。
例えどれだけの人が傷つき、沢山の血が流れても。
例えどれだけの人が失った者の為枯れる事の無い涙を流したとしても。
貴方が生きていてくれさえすれば、それだけで良いなんて。
俺は、汚れている――…。
ふいに空気が動く。
顔を上げると、窓の側に彼が立っていた。
「カカシ、さん…」
「ごめーんね。ちょっと遅くなっちゃいました」
もしかして待っててくれたの?と柔らかく微笑いながら言う。
その頬は少し汚れていて、纏う忍服も所々破けて素肌が覗いていた。
「カカシさんっ!!」
怪我を負っているかもしれないだとか気遣う事も出来ず必死に抱きついた。
埃と、少しだけ汗の匂い。
「おわっ、イルカせんせ!俺ちょっと汚いですよ!」
抱きついたままぶんぶんと首を振った。
そんな事構わないから生きている貴方を感じさせて欲しい。
ぎゅうぎゅうと抱き締めて、彼の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
「おかえり…なさい」
「はい、ただーいま」
埋めていた頬に手を添え、彼へと視線を合わせられる。
「どーしたの?なんだか泣きそうな顔してる」
そう言うと、おろしていた俺の髪をくしゃくしゃと掻き回しながら心配そうな表情を浮かべた。
こんな顔をさせたいんじゃ無い。
里の為戦ってきたこの人を、余計な事で心配させたくなんか無いのに…
何時もの様に今出来る一番の笑顔を作れ。
少しだけ、引き攣ってしまうかもしれないけれど。
「任務お疲れ様でした!お腹、空いてませんか?怪我は?」
さっと彼から体を離すと、逃げる様に台所へ向かった。
拙い。
このままでは本当に泣いてしまいそうだ。
「せんせ」
「先にシャワーしてきて下さい。こんな時間なんで雑炊でも作ります」
背を向けたまま、こんな気持ちを悟られぬ様精一杯明るい声で声を掛ける。
何時までも居なくならない優しい気配のせいか堪えていた筈の涙が一粒、頬を滑り落ちた。
「ダーメだよ。泣いてるアナタを置いて風呂になんか入れる訳ないじゃない」
「泣いてなんか…っ」
「嘘はいけませんねぇ」
咎める声と共に後ろからふわりと抱き締められる。
堪えられなくなった涙が後から後から頬を伝った。
こんな俺は、貴方に見せたくなんかなかったのに。
「ほら、白状しちゃいなさいな」
耳元で囁かれる優しい声が心に沁みて痛い。
促されるままに、ぽつぽつと話し出した。
「帰りが、遅くて…。貴方は強い人だって…分かってるのに…急に、怖くなって…俺…」
「それで不安になっちゃったんだ。ごめんね。ちゃんと連絡すれば良かったね」
ぽんぽんと子供をあやす様に頭を撫でてくれる。
「でももう大丈夫だよ。ちゃんと帰ってきたでしょう?だから泣かないで。ね?」
「俺、何の力もない自分が…貴方を守る事も出来ない自分が嫌で。そのくせこんな風にウジウジしてるだけの自分も嫌で…っ!」
くるり、と体を入れ替え、向かい合わせに抱き締められた。
「そんな事ない。俺はね、十分過ぎる程貴方に守られてるよ。俺が俺で居れるのは、あんたが側にいてくれるからなんだ」
「だけどっ!俺は貴方さえ生きていてくれれば、他の人間なんかどうなろうと構わないって!そんな酷い事が平気で思える様な汚れた人間なんですっ!!」
びくっとカカシさんの体が強張る。
――遂に言ってしまった…
軽蔑されてしまっただろうか。
「イルカせんせ…そんな事思ってたの…?」
怖くて視線を合わす事が出来ない。
今、彼はどんな表情をしてるのだろう。
「どーしよ、俺、今すっげぇ嬉しい…!」
「え…」
ごほっげほっっ
予想外の言葉と一緒に力一杯抱き締められて、思わず咳き込んだ。
「カカシさっ!痛ッ痛いですっ!!」
「あっごめん!嬉しさの余り力の加減が…」
言いながらぱっと抱き締めていた腕を離してくれた。
嬉しい…?
カカシさんは嬉しいのか?
「……軽蔑、しないんですか?」
「なーんで軽蔑なんかすんのさ。だってそれって俺以外の人間は要らないって、俺だけいればいいってことデショ?」
それってスゲー殺し文句っっ!と身を捩りながら悶えている。
「や…あの…」
「え、違うの?」
ちょこん、と首を傾げて聞く。
つい先程まで手を血に染めていたであろうに、こんな時のこの人はまるで子供みたいだ。
「や、違わない、です…」
「デショ?俺、イルカ先生がそんな風に思ってくれてたなんて、凄く嬉しいです。生きてて良かったってマジで思う」
「そんな大げさな…」
「大げさじゃないよ」
ぎゅっ、と手を掴まれる。
カカシさんは先程までのふにゃふにゃした笑顔とは違う、真剣な眼差しで俺を見つめていた。
「貴方と出会うまで、どんな任務に出ても生きて帰れて良かったなんて思うことはありませんでした。ただ漠然と戦って死ぬだけだって、そう思ってました。でも今は違う」
真っ直ぐな視線。
紅い瞳はまるで燃え盛る炎の様で、不安に震えていた心が焼き尽くされてしまいそうに思えた。
「貴方だけが俺を人に戻してくれる。貴方だけが、俺に生きる幸せを教えてくれるんです」
「カカシさん…」
ふっと表情が緩むと、今度は意味有り気な眼差しで人差し指を俺の唇に宛てた。
「それにねぇ、先生のなんてまだ可愛い方よ?俺の独占欲なんてもー大変。イルカせんせに3秒以上触れた奴は全員抹殺対象になるもん」
それはもうバイオレンス過ぎてR指定モノですよ、なんて不穏な台詞をニコニコと、邪気の無い笑顔で話す。
鼻頭にちゅと接吻を落として俺の顔を覗き込んできた。
「なんなら、明日から実行してみマス?」
「いえっ!全力で遠慮させて頂きますっっっ!!!」
「えー遠慮なんかしなくていーのにぃ」
こんな話し方をするのはこちらの心を和らげる為。
態と軽口を叩きながら、この人はいとも簡単に俺の闇を明るく包み込んでしまう。
「…やっぱりイルカせんせは、純粋で真っ白だね」
柔らかく抱き締められた耳元で彼がぽつりと呟く。
俺はふるふると頭を振り否定を示しながら、彼を色で例えるなら何色だろうと考えた。
銀色。
月の、光。
闇を照らし出す、月。
「俺なんてアンタと一緒で、ドス黒くてドロドロのぐっちょんぐっちょんですよ」
「あははー何ソレ。なんだかヒワイですネ」
「…アンタの頭ん中はソレだけですか?」
互いに軽口の応酬をしながら笑い合う。
もう心の闇は見えない。
そっと手を伸ばして、
俺は月を
抱き締めた。
end