short story

□夜明け
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 彼のアパートから出ると、気温差に身震いした。
夜の間に冷え切った空気は私の肌を刺す。
昨日家に手袋を忘れてきてしまった事を悔やみながら、両手をこすりあわせた。
 空はまだ暗い。
小さな月がわずかばかりに輝いていた。

「どうしたんですか」

 声に振り向くと、ふんわりとした笑顔と目があった。
つられて私も微笑む。
彼はいつでも私を幸せな気持ちにさせてくれる。

「なんでもないよ」
「そうですか?」

 ドアの鍵を確認して歩き出す。
所々錆びの浮いた階段が安っぽい音を立てる。
まだ朝早い。
近所迷惑にならないようにそっと足をおろすが、高い音が響いた。
 くっくと笑い声がして睨み付けると、案の定彼が声を抑えて笑っていた。

「なんでもありませんよ。さ、行きましょうか」

 優しく言われてしまうと、私は何も言えなくなる。
言葉遣いとは裏腹に私と彼の関係はどこまでも私が弱者なのだ。
強制されている訳ではない。
なのに、私は彼に絶対服従してしまう。
 どことなく湿ったアスファルト。
凍って乾いた風。
鼻が冷える。
私はきゅっと顔をしかめた。
指先も冷えて痺れてくる。
手を握りしめても、冷え性の私の手のひらは全く温かくなかった。
 ふと視線を彼に送る。
一、二歩先を歩く彼の手には黒い手袋があった。
白いコートと黒いマフラー、黒い手袋。
少し眩しくて目を細める。

「今日はすみません」
「いいよ、私が悪いんだから」
「そんな事ありません。僕がきちんと見ていれば終電に間に合ったのに‥‥」

 立ち止まって、振り返る。
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