教育実習生 坂田銀八

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放課後。
いつも通り図書室に行って勉強道具を広げてみたものの。
なんとなく集中できなくて、英文も公式も右から左へと素通り。
僕は諦めて、普段より早めに切り上げると廊下へ出た。
夕陽に伸びる自分の長い影を追う。
人気の無い3年生の教室前には、グラウンドから微かに届く野球部の練習の声だけ。
伴奏に乗せて規則正しくリズムを刻むかのように、自分の足音がそこに混ざる。
ふと、まっすぐ前。
そのテンポを崩すように、ゆったりと。廊下の向こうで、高い影が揺れた。


「坂田先生」

少し迷ったけれど、僕はその背中に声をかけた。
振り返った彼は朝の出来事など嘘のように、いつもと変わらぬ死んだ目で僕を見る。

「まーた図書室かよ。テスト終わったっつーのにマジメ君だな、オイ」
「先生は帰んないんですか」
「けーるよ、もう。ニコチンが俺を呼んでっからね」

じゃな、と短い挨拶と共に、片手を上げて坂田先生が再び歩き出す。

「先生」

僕は、もう一度呼びかけた。

「あー?」

今度は振り返らずに、立ち止まった背中から声が返される。

「…今日、どうして、あんなコト言ってくれたんですか?」

聞きたいことも、言いたいことも、たくさんあった気がする。
でも、今は質問がまとまらない。やっと出てきたのは、そんな問いかけ。

「さァな〜」
「だって先生はただの…」

ただの、教育実習生なのに。
付き合いは短期間限定。生徒に対する責任もなければ、仕事としての義務も無い。
担当教師に逆らうなんて、デメリットがあってもメリットがあるとは思えない。
そんな、ただの。

「俺ァ、大して考えてモノ言っちゃいねーよ。おめーらの将来になんの責任もねーし。実習終わりゃ関係ねーし」

僕が思った通りの答え。一旦途切れた会話は、彼自身の「けどよォ」という言葉で続く。

「小笠原先生は違うんじゃねーの?あの人ハンパねぇもん。おめーらの受験心配しすぎて、すっかり熱くなっちまってよォ。お陰でそこそこに済ますはずの俺の実習、エライとばっちりよ?」

実に面倒臭そうに白髪頭を掻く坂田先生に、なんと返事をして良いか僕はわからなかった。
何を言いたいのかが、よくわからなかったからだ。

「しかもよォ、今時大学ノート32冊使ってデータ管理ってどうよ?アナログぶりもハンパねぇし。パソコン使おーや、パソコン」

愚痴るような口調で、坂田先生はうざったそうに溜息をつく。

32冊、って。
A組の人数32人と、同じ数?

「それって…」

もしかして、と心をよぎった考えを確かめるべく、口を開いた。
けれど、それを遮るように。いや、それ以上言わずともわかる、とでも言いたげに。
坂田先生が先に続けた。

「入学からのテスト結果だの、苦手科目だの、志望校だの。よくまァ、あんなモン、マメに全員分手書きするよね。読むだけでもメンドくせェよ」

そういえば思い出した。
いつだったか、日誌を届けに職員室へ行った時。
小笠原先生が開いていた机の引き出しに、びっしりと並んだ大学ノート。
あの時は、気にも留めなかったけれど。
もしかして、あれが。
そうだ。いつだって、前回のテストの平均だの前々回のテストの順位だの。
驚くほどに様々な僕らのデータを小笠原先生は把握していた。
こんな点じゃお前の志望校には届かんぞ、なんて。
一人ひとり名前を呼んでテストを返しながら、眉間に深い深いシワを寄せて。
けれど誰一人漏らすことなく、声を掛けていた。


『コレ全部小笠原先生の受け売りみてーなもんスから俺が言うまでもねーっスよね』

今朝の坂田先生の言葉を思い出す。
意味のわからなかった、あの言葉。
この事を言っていたんだ。
坂田先生は僕たちのテスト結果を、小笠原先生のノートで知ったんだ。






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