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□空言
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今日もふと気付けば、開かれたこの掌は、あの空へと伸ばされている。

いつからかは知れないが、どうやらこれは癖らしいと自覚したのは、ごく最近の事。
伸ばしたところで何かに届くわけもない指先は、ゆらゆらと空を掻くだけ。
夏には夏の。
冬には冬の。
変わりゆく空気にそっと触れるだけ。

何をしているのかと尋ねられる度、返す言葉は、「なんとなく」。
だって言葉はいつだって脆くて、頼り無くて、そのクセ乱暴で。
時には、大切な想いすら台無しにしてしまうものだから。
迷い無く開いたこの掌も、その指の隙間からこぼれる気が遠くなりそうな青も。
そのすべてを無理矢理言葉にしたなら、それは途端に心を離れて、空言へと成り果てる。





空へとまっすぐに広げた手。
そこにもう一つ。後ろから大きな手が重ねられた。
空に向けたこの手に、そっと添えるように。一緒に何かを追うかのように。そして、支えるかのように。


「…何してんですかィ。土方さん」

背後に立つもう一つの手の主を、首を反らせて見上げた。
逆さまの視界の中で、彼はそんな己が手を見つめながら、
「…何だろうなァ」
と、とぼけた口調で首を傾げる。

銀色の髪が遠い青に映えて、透けるように光って。
ふらりとゆるい風に揺れた一房は、どこからかはぐれた雲の欠片を思わせた。

「わかんねーけど。つい、なんとなく?」

そのままの体勢で彼は空を見上げ続けながら口を開く。
釣られるように自分も、もう一度2つの手越しの空を見た。

「なんとなく、で付き合って手ェ挙げてくれるほどお人好しでしたかィ?アンタ」
「そうねェ。何なんだろうねェ」

空なんかよりもずっと向こうを眺めているかのような、どこか上の空な口調。
本当に上の空なわけではない。彼はいつも、こんな話し方をする。


「まァ、そうだなァ。強いて言うなら…」

少しの間の後、背中から降ってきた声。
下ろそうとしていた手が大きな掌にぐいと押し上げられて、また空へと伸びる。さっきよりも、遠くへ。
その行動の理由を求めて振り返ろうとしたら、先に答えがやって来た。

「後押し?」
「…なんでィ。後押しって」
「なんだろな。わかんね」

そう言うと彼は、そんな自分が可笑しいとでもいうかのように、小さく声を上げて笑った。

「そんなん頼んじゃいねーよ?アタシ」
「そうねェ。頼まれちゃいねーな」
「後押しって、してもらったらどーなんの?」
「別にどーにもなんねーんじゃねーか?」
「土方さん、わけわかんねーや」
「まったくだ。わけわかんねーな、俺」


まるで無意味ないくつかのやり取りの後、溜息と共に手を下ろした。
後ろの男を振り返る。
見上げ続けていた目に沁みる空色が視界を霞ませて、その姿が一瞬青に滲んで見えた。

「アタシを押してる暇があんなら、アンタが手ェ伸ばしときゃいーじゃねーですか」
「ま、気が向いたらな」
「手ェ上げんのキツイ歳になる前に、とっとと気ィ向かせた方いいですぜ」
「ソレって何?五十肩的なアレのこと?早くね?」
「そーでもねーでしょ。オッサンてのは自分の気付かねートコで日に日に侵食してるもんでさァ」
「ヤベーな、オイ。枕嗅いでみっかな」

眉間にシワを寄せながら、彼は隊服の胸ポケットから取り出した煙草に火を灯した。
「ま、とりあえず」と気だるげにつぶやきながら、大きな伸びを一つ。
筋を描いた煙が、しゅるりと空へ溶けて散る。

「今日も元気に市中見廻りと行きますかねェ、沖田隊長」
「たりーけど、そーしますかィ。土方隊長」
「なんで俺格下げされてんのよ。副長と呼びなさい副長と」
「そろそろ引退でいーんじゃねーですか。跡ならアタシが継ぎますぜ」
「…オッサンもまだまだ若いモンには負けねェっつー悪あがきがしてーのよ」

情けないツラに笑いながら、さっきまで伸ばしていた掌で、腰の獲物に触れた。
たしかに触れる固い感触。この手が掴むべき、ただ1つのもの。




見上げた空は果てしなく、青い。
まだ少しだけ肌寒さの残る春風を無防備に受けていた掌は、ひんやりと白い。
けれど奴の掌が添えられていた手の甲だけが、風に触れず温かいままだった。

求めているのは、伸ばした指先が届いてしまうような低い空などではなく。
行き場の無いこの手を、握ってくれる掌でもない。
けれど、それでも。ふと気付けばこの手は、今日も空へと伸びている。
理由は、ただ、「なんとなく」。
それ以上はいらない。
使い古された台詞も、乱暴なまでの理屈も。そんなものはいらない。
いつだって言葉は、少なからず空言。
それよりも、たしかなもの。
訳も無く後押しするもう一つの手の温度と、同じ場所へと向かうこの足とが。
何よりも、たしか。
それだけでいい。

例えこの冷たい掌には、何も残らずとも。










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