パラレル

□演目:犬神の独白過去語り
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いやだ、いやだ、いやだ。人を殺すのだけはもういやだ。
もう赦してくれ、と何度泣き喚いたかわからない。あの暖かい場所に返してくれと泣いて主人に縋ったら、その場所はもう存在するわけがないと言われた。お前が『犬神』になってどれほどの時間が経ったと思うのだ?と。





その日は人間を殺さなくていいと主人から言われた。
主人は俺のような式神を使役して退魔や暗殺をする生業をしていて、彼は人間だった。人間というのは50年程したら死んでしまうものだから、今の主人は三人目。俺を犬神にした人間を入れれば四人目の主人となる。
その彼が今宵は人間を殺さない、と言ったということは、退魔の仕事が入ったということだろう。同族を殺すことになど慣れていたから別に心は今更疼きもしない。元来性質が『犬』だものだから考え方はずっと人間寄りで、妖怪やら魔性やらの方が余程他人のように思えていたから俺は心底ほっとしたものだ。
して、何を殺してくればいい?と主人に問うたら、『みつち』を殺してくればよいと言われた。水生の魔性で蛇によく似た長い体に四本の脚を持ち頭部には角のある姿であると言われ、なんとも珍妙な魔性だと思った。そう思ったままの感想を言ったら、お前もそう変わるまいにと笑われて少々気分を害した。人間に近付きたくていつも人の着物を着て、二本の脚で歩くくせに犬の耳と尾を隠せていない俺も主人から見れば『みつち』とそう変わらないのだそうだ。
さあ、無駄口を叩かず行ってこいと背を押されて、仕方なく出掛けようとしたら、『みつち』は毒を使うからくれぐれも気をつけよと忠告を受ける。四人目の主人は少しだけ優しい人で、嫌いではなかった。だから今回は相手が人でないのだからさっさと終わらせて帰って来ようと軽い気持ちで俺は屋敷を出たのだった。



その魔性は山村の沼に棲み着いて毒を吐き人々を困らせているという話で、俺はその山村にあっと言う間に降り立つ。主人のいる都からはかなり距離がある場所だったが、魔性と成り果てた俺の脚にかかれば時間など関係ない。
闇に沈む集落の中を無造作に歩きながらくん、と鼻を鳴らせば濃い水の臭いを感じてそちらに足を運んだ。どんどん深まる水の臭気に自然と眉が寄る。村はずれまでやってくると臭気は一層酷くなって、木々の合間に見える沼から立ち上る靄が見えた。あれが臭気の源だろうかと警戒しながら林に立ち入れば、沼の表面からごぽりごぽりと泡が生まれてそれが次々に弾けているのが窺える。気味の悪い沼だと思いながら葦の草むらに身を潜ませてじわりじわりと沼の中へ足を通すと、冷たい水がひたりと足に絡みついて思わず身が竦んだ。
次の瞬間、絡みついたのは水だけではないと気付いて俺は全力で足を振り払って草むらから飛び出す。あの感触は蛇の鱗だったと確認しながら辺りを目敏く見回し警戒を深めた。すると、沼の中心がみるみる盛り上がってきてその水がどんどんと人の形を作っていき、遂には首に大蛇を巻き付けた色白の美青年が姿を現す。俺はその光景をただ呆気にとられて見ているだけだった。
「………あれが、みつち?」
呻くような声は空中に出ることなく口の中で消える。主人が教えてくれたのと大分違う姿、寧ろ人間そのものの姿で出てくるとは思わなかったから俺の足は当然のように怯んで動かなかった。今まで見てきた魔性の者達も確かに人間の姿を真似てくる者はいたが、目の前の魔性は真似ているのではなくそのままの姿であるような気がしたのだ。
「い、嫌だ、俺は『みつち』だから殺しに来たのに……!」
両の手で顔面を覆いながら俺は目の前の光景から目を反らした。人を殺す覚悟をしていなかった俺の精神は簡単に揺さぶりを受けて呆気なくがらがらと崩れていく。
「ふぅん、今僕は『みつち』と呼ばれているのか」
地面にうずくまって身を縮めている俺の頭上から声が掛かって、俺は怖々と顔を上げた。
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