文章1

□紋白蝶
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まだ5月の後半だというのに蒸し暑い日々が続いていた。最近まで周囲に逆らって重苦しいブレザーを着用し続けていたが、最近の異常な真夏日に負けて漸く長袖のカッターに着替えたのが一週間程前。
それなのに2、3日続く長雨のせいで気温はどんどん下降し始めていて夜にもなるとしんしんと冷えるようになってきていた。冷え性の気がある僕にはカッターだけでは少し肌寒い日々だ。家で飼っている蛇のジュンコに触れるのも躊躇ってしまうほどこの寒さが堪えている。真冬のそれに比べたら大したことはないのだけれど、一度暖かさを知ってしまうと些細な温度の低下も耐えられなくなるのだから人間とは悲しい。いっそジュンコのように変温生物であれたらいいのにと思い悩んでいるうちに電車のアナウンスが目的の駅名を告げた。
慌てて現実に立ち返ると、窓の外は墨汁でも垂らしたかのように真っ暗だったが雨は降っていない。まだ濡れている傘の柄を握りなおして開いたドアからホームへと降り立った途端、寒さを含んだ風が吹き付けてきて身が竦んだ。雨は止んでいても気温は未だ下がったままらしい。
今日は珍しく担任に呼び止められてあれこれと雑用を押し付けられ帰宅がすっかり遅れてしまったのだが、矢張り担任の頼みでも無理矢理理由をでっち上げて帰るのだったと今更後悔した。これからまだ地方線へと乗り換えなければいけないのだが、田舎故に電車は多くても30分に一本という非情な少なさ。次の電車まで20分は裕にあるのを腕時計で確認して、脱力しそうになる両脚にもう一度力を込める。担任が駄賃にくれた五百円玉で絶滅させられそうになっているホットコーナーの隅にある緑茶を購入してから逃げ込むようにホームに設えられた待合所に飛び込んだ。
滑りが悪い引き戸を力任せに閉めてすぐ側のベンチに腰掛け冷えた指先を緑茶のボトルでじっと温める。温めながらきょろりと周囲を見渡すと、僕と対角線の位置に先客が居た。僕とそう変わらないぐらいの女の子。短めのプリーツスカートからすらりと伸びた足は運動をやっている者のしなやかさがある。小脇に抱えた黒い布袋は細く長いから竹刀か何かが収まっているのだろうか。バサバサと痛んだ色素の薄い髪はポニーテールにしてあって、よく日に焼けた健康的な腕が半袖のブラウスから覗いていた。
あまり異性を見て気持ちが動くことなどないのだが、何故だか目の端に映る剣道少女が気になってたまらなくなる。だからといって声を掛ける勇気なんてあるはずもなく、僕はぼんやりと窓外を眺めているふりをしながら偶に横目に見える彼女を見ていた。
後ろでガタガタと窓が鳴る。風が強くなってきたのを感じるだけで寒気が増してきたような気がして二の腕を無意識にさすっていると、項の辺りに風が吹き付けた。二の腕の代わりにそこをさすりながらゆるゆる視線を動かすと、近くの窓が半分ほど開けられた状態でガタガタと風に揺すられ続けている。この寒い日にわざわざ窓を開けるなんて何処の酔狂だとささくれ立つ気持ちを抑えながらそっと立ち上がり、がたつく窓を閉めようとした瞬間「待って」と背後から聞き覚えのない声に呼び止められた。この待合所には僕と女子高生しかいないのだから彼女の声だと気付いたのは、しっかり向こうと目が合った時だった。
「窓、開けててくれないかな」
申し訳なさそうな高い声が狭い室内に籠もる。僕は意図が読みとれず、まだ窓のサッシに手を置いたままで引き下がる気がないことを彼女へと表す。それでも女子高生は真っ直ぐ僕を見つめたまま「ごめん」と小さく謝った。そのまま彼女の指が天井の蛍光灯を指し示した時、つられて蛍光灯を見上げた僕の喉からつい驚きの声が上がる。
「……紋白蝶」
「そいつ、迷い込んじゃったみたいで出口ないと可哀想だから窓開けてたんだ」
"そいつ"と蝶のことを擬人化させて呼んだ女子高生の言葉に僕は何故だかはっとしてサッシから手を離した。何かが記憶の糸に引っかかって"思い出せ"と主張してきたが、僕は瞬きする間にその引っかかりを見失ってしまった。だけど次の瞬間には彼女と言葉を交わしてみたい欲求が仄かに生まれていて僕を戸惑わせる。
自分の思考と欲求が結びつかないまま天井の紋白蝶を見上げると、合わせたように聞き慣れた電車の音がして蝶がふわりと飛び立った。女子高生の後ろの窓外で停止した電車が自分の待っていたものだと気付いて立ち上がると、蝶はその僕を避けるようにふらふらと覚束無い動きで開いた窓から出ていく。咄嗟に女子高生を振り向いたら、竹刀袋を抱えた彼女がにっこりと笑って蝶に手を振っていた。
その笑顔に見覚えがある気がしたけれど、どの記憶に引っかかるのか矢張りわからない。僕は手を振らず、代わりに待合所の引き戸を開けると女子高生も後ろから付いてきた。
そしてそのまま同じ電車に乗り込み、閑散としているのにお互い近くの座席になんとなく座る。話すには遠く、無視してしまうには近い位置だ。それでも僕は彼女に声を掛けることが出来ないまま揺られ続けた。
やがてアナウンスが僕の町の手前駅を呼ぶ。あと一駅か、と無意識に腕時計で時刻を確認していたら、視界の隅で女子高生がゆっくりと立ち上がった。彼女はここで降りるらしい。
軽い足取りで車内を歩いていた足が僕の前で一瞬止まって、声が降ってきた。驚いて顔を上げた僕に彼女は紋白蝶の時と同じ笑顔で手を振る。そのまま扉から出て行った後ろ姿を見送りながら、僕も小さく手を振った。
「またね、か」
頬を少しだけ赤らめた彼女の顔を思い出しながら、次を期待してしまう自分にそっと苦笑いした。






end



二人の出会い

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