文章1

□油蝉
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遠くの方で蝉の声に混じって楽しげなざわめきがしている。真夏の和らぎ始めた日差しは境内の中にまでは差し込まずにシャットダウンされているおかげで社の中は涼しかった。
着慣れないけれど、着慣れた感触がする袴を捌きながら古びた床を歩くとぎぃぎぃ軋む。祭りの役目に選ばれたせいで施された化粧が煩わしくて、鏡を求めてトイレに駆け込もうとした所を愛想の良い世話役の女の人に捕まってしまった。今2町合同の祭りで隣町まで来ている僕と共にやって来ていた女の人は、僕の為に化粧を落とす道具を持ってきてくれているらしい。
有り難く着いていくと、荷物置き場からポーチを取り出した女の人にもう1人はどうしたと尋ねられる。
「友達と話してるみたいです」
「へぇ。地元じゃないから君は寂しいね」
メイク落としシートと書かれたパッケージを剥がして取り出したシートを丁寧に四つ折りにした女の人が僕の頬を優しくそれで撫でた。自分でやると訴えれば強く擦るから駄目だと断られる。一番気になっていた目許を拭われてほっと息をつくと涼やかな笑い声に自然と眉が寄った。
長い黒髪を後ろでひとまとめにした世話役の女性に、漸く見知った顔になったとメイク落としシートを片付けながら言われて僕は「はぁ」と気の利かない返事を返す。僕は見覚えがないと首を傾げるとまた笑われた。
「こうすると、わかりません?」
ぱさっと後ろで纏めていた髪を上で束ねあげて見せた女性に僕は驚きで目を丸くしたがよくわからなくて首を振った。
「伊賀崎先輩は覚えてそうだって思ったんだけどな」
ははっと声を上げて笑った女性に僕は名前を教えたろうかと不思議に思った瞬間、明らかに年上の女性なのに"先輩"と呼ばれたことに気付いた。
「僕は直ぐわかりましたよ。馴染みの和装だったから余計わかりやすくて」
相変わらず絶やされない笑みに僕は思い当たるところがあって小さく声をあげた。
「三治郎?」
「はい、今は名前違いますけどね」
お久しぶりです、と会釈されて嘗ての後輩に僕も会釈を返す。意外と近くに生まれ変わっていたのかと驚いていると、神輿衆の中に虎若もいたのだと教えられ、こんな姿を見られていたのかとなんだか気恥ずかしくなった。
「こっちの町に来てすぐに七松先輩と不破先輩、鉢屋先輩も見かけましたよ。結構みんな生まれ変わってるんですね」
「…そんなに」
「ええ、役目に選ばれたのが竹谷先輩と伊賀崎先輩って知った時が一番驚きましたけど」
「竹谷、先輩?」
首を傾げた僕に三治郎は薄く色付いた唇を指で抑えて参ったな、と視線を彷徨わせた。明らかに言い過ぎたことを悔やんでいる素振りで気にするなと言われたが僕は細い女性の腕を掴んでもう一度問う。まさかあんなに近くにいたのに見落としていたのかと自分が信じられなくなる。
「覚えてないなら無理に思い出す必要はないですよ。昔の記憶は現在必要ないものだし」
「いや、覚えてる。けど、ちょっとあの人とあの子が、繋がらなかっただけ、で」
絶対に今生で出会っても気付くだろうと思っていたのに言われるまで気付かなかったなんて。今考えれば感覚は彼女を示していたのに、それを拾えなかった。
夕暮れも迫り始めたのに止まない蝉の声は僕の背中を追い立てた。




end

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