文章1

□龍神と貴族
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ごおっと風が鳴った時、このまま私を連れて行ってはくれないかと思ってしまった。
それは仕方のないこと。私は今ある現状に嫌気が差していて逃げ出したいと毎日毎日思っているのだ。
『顔は美しいのだがなぁ』
ことある毎に父上から掛けられる言葉はいつも私に突き刺さって、私はそれに抗うように自尊心を深めていく。私の顔は母上に似て美しい。顔は兄弟一美しいし、学は一番上の兄にも負けてはいない。
だけれど私の母上は側室だった。父上は美しく気品のある母上を一番愛していらしたし、その息子である私にもとても良くしてくれた。屋敷も建ててくださったし求めれば何でも与えてくれる。
だが私が側室の子であるために、優秀な男子であっても跡継ぎには選ばれないし、父上も扱いに困っているのだ。私に気をかければかけるほど正室が父上にこうるさくなるようで、疲れたような父上が『せめて女子であれば』と零したのも一回ではない。女子であれば嫁がせることが出来る上に上手く使えば勢力を拡大する良い道具にもなれる。
私も何度だって思った。女子にさえ生まれていればこの美しさを武器に父上のお役にたてるのに、と。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、先程から吹く強い風に自慢の黒髪が乱された。連れて行ってもくれないのに髪を乱すなど不埒な風だと、腹を立てた時、きしりと廊下の欄干が鳴って「連れて行かれたいのか?」と声が降ってきた。
「っ!!?」
口に出ていたろうかと口元を抑えながら欄干を見ると、大きな、それこそ大の大人以上ある狼のような化け物が華奢な欄干に前足を掛けていて腰が抜ける。尻餅をついたまま悲鳴を上げなければと何度も何度も頭の中で繰り返すのに、開いたままの口からは何も出はしない。このまま喰われてしまうのだろうかと思った瞬間、それで解放されるのなら良いかもしれないと思った。そのせいで恐怖で体は震えていたが、幾分か心には余裕が出来て狼の化け物を見返すことが出来た。
最初に気付いたのは丸い優しげな瞳。時たま都を荒らす妖魔の存在は伝え聞いていたが、そのような邪悪なものがこんな瞳をするだろうかと不思議になるほどに、腰を抜かした私をじっとその瞳で見つめてくる。化け物が甘えるかのようにくぅんと鼻を鳴らした時、私は漸く化け物の背中に男が乗っていることに気付いた。とても高価そうな着物を纏った男はその肩に美しい女物の紫の打ち掛けを羽織って身分の高いもののように見えたが、赤茶けた髪は伸ばしっぱなしのようで酷く荒れている。それなのに綺麗に上で結い上げられているのが酷くおかしかった。意志の強そうな太い眉の下にある丸い瞳は化け物の瞳にそっくりな団栗眼で妙な愛嬌さえある。
「腰を抜かしたか。人間は他愛なくて可愛いなぁ」
大きな口が愉快そうに言葉を紡ぐ。その声は先程降ってきたものだと気付いた私はもう一度男を見上げた。化け物に跨って私を人間という括りで呼ぶ彼は人の姿はしているが、人外なのだろう。
「お前、名前は?」
なんの衒いもない満面の笑顔で尋ねてくるものだから答えてしまっても良いような気がした。けれど冷静な思考が戻ってきたせいで化け物に名前を教える恐怖が湧く。名前を知られれば全ての主導を握ることが出来るのだから。
私が口を噤むと男は困ったように頬を掻いて、化け物の耳辺りの毛をぎゅっと掴んだ。その毛を離してまた撫でつけたりと全く無意味な手遊びを始めた男は突然手を打ち鳴らして笑った。
「名を聞くときは自分から名乗らなきゃいけないんだろ?長次に習ったの今思い出した」
ぐっと体をこちらに乗り出させて化け物の額に両手をついた男はまるでこどものように鼻を鳴らして自慢気だ。化け物がまたくぅん、と鼻を鳴らす。
「名前が大事なのは私だってわかってるぞ。でも礼儀は欠くなと教えられたろう?」
男が化け物に向かって言えば、化け物は器用にため息をついてみせて男の手を額に乗せたまま緩く首を振った。呆れた、という感じだろうか。その妙に人間くさい仕草が私の警戒心をゆっくりと解いていく。
「こいつは名乗りたくないらしいから勘弁してやってくれ。私は七松小平太。大川山に棲む龍神だ」
「龍神…!」
男の正体を聞いた瞬間また私の体は恐怖に強張った。大川山の龍神といったら数十年前都を荒らしたという悪名高い神である。私が震えだしたのに気付いた男は戸惑ったような顔でまた化け物の耳元の毛を掴んでいたが、彼が口を開く前に化け物が欄干を前足で蹴って身を翻した。「八左ヱ門っ!?」と男が叫んだが化け物はそれに耳を貸さず、まるでこどもを護る親犬のように私に歯を剥き出して唸ると、さっと空へ駆け上がって来た時と同じように突然姿を消した。






end

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