捧 呈
□箴日
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人々の寝静まる深更。その片隅で主の気質そのままに、ひっそりと息づく邸内。
扉越しに微かに感じるその気配すらも静かで、規則正しい。それはどんな時も変わらず、そう今も──そう考えて悠舜は声も立てずに笑んだ。
おおよそ何事があろうとも色を変えたりしない、薄氷のような瞳はいつも全てを閉じ込め凍りつく水面のようで。
その下で、どんな激流が渦巻くのか、それを知る者、気付くものは僅かだろう。
「────用があるならさっさと入って来たらどうだ」
とうに訪人に気づいている主から声を掛けられ、悠舜は扉に手を掛けると、するりと室の中に身を滑らせる。
戻って来た時のままであろうなりで机案に向かう葵皇毅の、脳裏で思い浮かべた通りの姿に悠舜の口唇は更に歪み笑む。
もう幾日、こんなことを繰り返しているのか。
それでもこの男は、疲労の色すらその瞳の下に覆い隠してしまうのだろう。
「お前から訪ねてくるなんて珍しいな……で、一体何の用だ」
顔を上げる事も筆を置く事もなく、皇毅は端的に尋ねる。
「別に、何も……ただ貴方が今、どんな顔をしているのかと見に来ただけです」
そう言われて皇毅は初めて顔を上げた。
その怜悧な眼差しは躊躇うことなく悠舜を捉えると真っ直ぐに見つめる。
「……これで、用は済んだろう」
「貴方も姫も、馬鹿です」
悠舜は予め用意していた言葉を投げつけた。
「貴方が何を諦め、姫が何を求めたかなど誰も知りもしない。そうまでしてもその先にもたらすのは、針の先ほどの滴を大海に垂らすが如く、僅かな変化のみ。何を成すこともない……なのに貴方達は諦めない」
投げつけたのは言葉の刃だ。相手の胸を深く抉る、容赦のない。
無言の瞳が静かに自分に向けられるのを、悠舜も逸らさず受け止めた。
やがて、ふっ‥と、小さな吐息が溢れ、ことりと小さな音を立て、筆が置かれる。
「それでも彼女は選んだ」
抑揚のない声が淡々と続く。
「俺も選んだだけだ」
その応えに迷いはなく後悔の片鱗さえ宿らない。
だが、誰から見ても何時倒れてもおかしくない程に己の職務に没頭し続けているのだ──何をも考える時間も余裕もない程に。
人は簡単に嘘を吐く。それを誰より、良く知っている。
心が望むことと言葉となり形取るもの、それは何時も同一とは限らない──それも人は嘘と呼ぶのだろうか?
悠舜は手を伸ばし、皇毅の少し痩けた冷たい頬に触れる。
そして嘘は吐いていない嘘吐きな男の瞳を覗き込む。
真っ直ぐに、己の進むべき道を違わない男の瞳を。