壱之花
□誘刃
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片付かない書翰の山。
どれほどの刻が流れたのか気付かぬままにいたが、室の外に感じる気配の少なさが既に遅い時刻なのだと気付かせてくれる。
流石に疲れからくる目暈を感じた悠舜はそっと筆を置いた。
まだ大丈夫……でも薬は飲んでおこうか?
「頑張りやさんだよねぇ、相変わらず」
そんな逡巡を打ち破る、声。
突然に響き渡った声の主は静かに音も立てず、まるで猫のように忍び寄る。
「凌黄門侍郎……」
何時もの笑んだ表情のまま目の前に現れた晏樹の姿を認め、悠舜は小さくその名を呟いた。
「もう誰もいないよ? 悠舜」
ゆっくりと晏樹は顔を覗き込むように近付けてくる。
相手の意図に気付いても悠舜は近付く口唇から逃げはしない。
ただ、晏樹の気が済むまで、好きなだけ貪らせる。
「……つまらないね。嫌がらせにもなりゃしない」
口唇を離して呟く、その感情の篭らない言葉に悠舜は苦笑する。
「また随分と捨て身の嫌がらせですね──」
「だって君にはかなり困らせられたんだもの」
少しくらい仕返ししたいじゃない?
そう嘯き、晏樹の笑みは一層深くなる。
「でも君に意地悪をしたいのなら彼の口唇を奪う方が効果的、かな?」
今度は声を立てくすくすと笑う晏樹に、悠舜はただ穏やかな笑みを返した。
「傍に近寄る事も出来ないのに、ですか?」
蛇蝎の如く嫌われて、吐息の掛かる距離になぞ決して近寄る事は出来ないのに。
「その気になれば近寄るくらいは出来ると思うよ?」
問い掛けるように小首を傾げられても、悠舜の表情が変わる事はない。
「──どうぞ御随意に」
静かに答えた悠舜は、再び筆に手を伸ばす。
「彼が君以外に心を許す筈がないって自信があるのかな?」
「誰に心許す許さないも、彼の自由ですよ? 私が口を挟む権利はありません」
答えながらも滑らせる筆先は料紙に流麗な文字を書き付ける。
「そうかなぁ?」
文字を追うように覗き込んだ晏樹の影が、その手元に掛かった。
思わず顔を上げた悠舜に再び晏樹は口唇を寄せる──繰り返される、質の悪い戯れ。
「彼が見たらさぞ真っ赤になって怒る事だろうね」
それも楽しいかもと、新しい悪戯を思い付いた子どものような幼馴染みに悠舜はそっと溜め息を吐く。
「──ねぇ、晏樹。私も暇ではないのですけれど」
「奇遇だねぇ。私も忙しいよ、色々と」
くすくすと笑いながら袂から取り出した物を、そっと悠舜の目の前に置いた。
「一つは君に──要らないなんて言わないでよね?」
机案の端に置かれたものを見て悠舜は小さな苦笑を洩らす。