壱之花
□初言
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「んっ‥」
絡まる舌先に息が詰まる。
苦しさに喘げば更に深くくちづけられ、相手の良いように翻弄される。
「‥っい加減に離せっ!」
相手の口唇が離れた瞬間を逃さず訴えるが、その苛立だしげに吐き捨てられた言葉にも相手は動じない。
「まだ誰も来ないし、もうちょい…」
再び口唇が重ねられ、貪るようなくちづけが続く。
昼時はどの部署も休憩に入り、慌ただしく行き交う人影は自然と減る。
元より外れの回廊ともなれば人気など無い。
そんな場所で偶々行き会った相手にあっという間に抱き寄せられたかと思えば仮面を外され………今に至る。
油断なぞしていなかった筈なのに近付く気配に気付かず、行為を易々と許してしまった事が腹立たしい。
「人が来るや来ないだの、そういう問題ではないっ」
やっと離れた身体を柱に預け、鳳珠は息を整える。
「浪燕青。お前という奴は行き合う度に…」
「会う度じゃねーもん」
けろりとした顔で燕青は指を立て言い募る。
「会った時に、一、周りに誰もいない。二、陰になる場所がある。そん時だけしか‥」
「なお悪いわっ」
確信犯の振る舞いに、鳳珠の眉根が強く寄せられた。
「…仮面を返せ」
だがこれ以上は話すだけ無駄と鳳珠は会話を打ち切った。
静かに差し出された鳳珠の手に燕青は外した仮面を乗せ、美しい顔が無粋な仮面に隠されるのに惜しむ眼差しを向ける。
無言で仮面を付けた鳳珠は直ぐ様背を向けた。
「またねー 鳳珠さん」
悪びれもせず掛けられる声を無視し、足早にその場を後にする。
頭の中では怒りが渦巻いているのに、それを相手にぶつけようがない。
ぶつけたところで、ひらりひらりとかわされるのが落ちだ。
いや、当たったところで応えるような神経を持ち合わせてるとも思えないが。
苛立ったまま戸部へと戻り、無言で尚書執務室に入った。
「時間が掛りましたね」
中に居た柚梨が振り返り声を掛ける。
昼前にと戸部尚書権限で借り受けた資料を返しに行った上司の戻りが思ったより遅く、そろそろ気になっていたところだった。
鳳珠は仮面越しに柚梨を見て、やはり無言のまま自分の机案へ着く。
「随分とご機嫌斜めですね」
昼食と茶を運んで来た柚梨が問い掛ける。
「また何かありましたか?」
「…またとは何だ?」
「最近の貴方、日に一度はそんな風にほんのちょっぴりご機嫌斜めになりますから」
そう笑う柚梨に鳳珠は仮面の下で苦虫を噛み潰したような表情になる。
その理由は一つだけだ。
「…何でもない」
「そうですか? ならいいんですけれど」
「………ただ気分がすこぶる悪いだけだ」
その言葉に柚梨はくすりと笑ってしまう。
「何が可笑しい?」
「いえ、何でも…」
この人が感情を剥き出しにするのも珍しい………
仮面を付けていても長年の友人の機嫌が判ってしまう柚梨は心の中で呟いた。
意外と短気で気が強くて喧嘩っ早い。だが公の場では表情と共に感情まで包み隠してしまう。
それ以前に、冷静沈着なこの男の感情を揺さぶる事が出来る人間はそうそういないのだけど。
食事を無視して仕事の続きに没頭する鳳珠を見つめる。
何事もなかったように筆を滑らせていても、その筆運びが苛々としている。
(こういう芸当が出来るのは吏部の紅尚書くらいなものなのですけど、さて………)
その様子に、柚梨はもう一度笑みを溢した。