捧 呈

□癒悦
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「くっ‥!」

 小さく、だが苛立たし気に吐き出されたその呟きは、悠舜の耳にしっかりと届く。

「──どうして貴方がそんな顔をするのです?」

 椅子に腰掛けていた悠舜は少し離れた場所に立ち、自分を見つめている黎深を不思議そうに見上げる。

 無惨に汚れた、悠舜の白い進士服……無理に持たされた大量の書物を片手で抱え、府庫に返却に向かう途中で杖に足を掛けられた。

 均衡を崩しながらも身体を捩り書物は死守したものの左腕から転び、背中にまで渡って泥に塗れてしまう。

 笑いながら去って行く、複数の足音──

 こんな事も初めてではなく、悠舜も何かを感じる事はない。

 身分の低い、だが出世を約束された国試状元及第者に対する妬みは尽きる事がない──恐らくこの先も、自分が官吏であり続ける限りは。

 だがそれは覚悟の内だった。

 痛みを堪えなんとか立ち上がると再び書翰を抱え、足を引き摺りながら府庫に向かう。

 辿り着いた府庫には既に黎深が居て、少し困ったような邵可を相手に楽しそうに笑っていた。

 そんな黎深が入って来た悠舜を一目見るなり顔色を変える。

 
 黎深の様子に邵可の視線も入口に立つ悠舜へと向けられ、普段穏やかな表情が翳った。

 立ち尽くす黎深をそのままに、邵可は椅子を汚す事を気にする悠舜を座らせ、丁寧に顔や髪に飛んだ泥を拭ってゆく。

 拭い終わると代わりの進士服を貰いにと出て行き、府庫には悠舜と黎深、二人切りで残された。

「──これから先、つまらぬ真似をする下賎の下で働かねばならぬのかと思えば腹が立つからだ」

 そう言いながら固く握り締められた拳に更に力が込められたのが判る。

 尊大な言葉とは裏腹に、その顔はまだ蒼褪めたまま、歳相応の幼さを覗かせて……

「ふふふっ‥そうですね」

 思わず笑った悠舜に黎深の眉が吊り上げられる。

「──笑うなっ! お前はもっと怒れ!!」

 怒鳴り付けた黎深は口唇を強く噛み締めた。

「……貴方が代わりに怒ってくれたから、もういいのです」

 そう言ながら立ち上がろうとしてよろめいた悠舜に驚き、慌てた黎深が駆け寄り支える。

「何をしている、座ってい──」

 悠舜は目の前にある黎深の口唇に指先を伸ばし、そっと撫でると己の口唇と重ねた。

「なっ‥!」

 
 驚いた黎深が後退り掛けるのを悠舜は引き戻す。

「血が出ています……強く噛んだりするから……」

 そう言うと再び口唇を重ね、舌先で滲む血を舐め取った。

 驚きながらも、黎深は大人しくされるがままになる。

「──貴方が傷付く必要はありません」

 滲む血を丁寧に舐め取り、ゆっくり口唇を離すと、悠舜は笑って告げた。

「傷付いてなぞ……」

「いないのならいいのです。私の思い違い‥と、いう事で」

 伏せられた睫毛が頬に影を落とし、震えている。

 寸前まで楽しそうに笑っていたその表情が、見る間に蒼褪めてゆく様を目の当たりにした。

 それが、己の内に昏い悦びを呼び起こす。

 その悦びの前には、総てが些末事だった。

「──黎深」

 悠舜が名前を呼ぶと、黎深は伏せていた瞳を悠舜へと向ける。

「私は──」
 

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