捧 呈

□奔弄
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「いっ‥痛い」

 何日も碌に眠れず、眠いのを通り越し頭や目の奥、あちこちが痛む。

 乾燥した目は血走り悪鬼巣窟と言われるのはこの人相のせいではないかとさえ思えてくる。

 六部の要、吏部──夜が更けても室の灯りは煌々と燃え盛り、忙しく動く人の気配は途絶えない。

 珀明は目を醒ますべく、冷たい水で顔を洗おうとよろよろと立ち上がり扉に向かう。

「何処へ行く気だっ! 碧珀明っ! 逃げようったってそうはいかないぜっ!」

 だがその行く手を、まるで街の破落戸のように目を血走らせた先輩官吏が立ち塞がる。

「いえ、眠気醒ましに顔でも洗ってこようかと……」

 逃げるなんて考えた事すらない珀明は驚いて、しどろもどろな返答をする。

「ふっふっふっ‥! 騙されないぜっ! そう言って逃げ出して、そのまま戻らなかった奴の数知れず‥! お前までいなくなったら俺等真剣死ぬっ!」

「そんなぁ‥」

 本当にもう限界に近い……いや超えている。このまま仕事を続けても間違いなく過ちを犯す。

「逃げませんから。直ぐに──」

 
 その時、突然耳の奥を掻きむしるような……いや、頭を金物で殴り付けるような?

 とにかく奇っ怪な音が室中に響き渡る。

「幻聴だ……はははっ……幻聴が聴こえる……」

 そう呟いた先輩官吏は、珀明の目の前でぱたりと倒れてしまう。

 ふと室の中を見渡せば、よれよれになりながらも筆を握り続けていた吏部の精鋭達は皆、力尽きたようにそれぞれの机案に倒れ伏していた。

 吏部で起きている者はただ一人……その音に免疫のあった珀明のみ。

「──龍蓮」

「久しいな心の友よ」

 音が止むのと同時に、聞き慣れた声がする。

「久しいなじゃないっ! どうしてお前がここにいるっ! ここは宮中だぞっ?」

 怒鳴りつつ振り返った珀明は、そこに何時もの如く奇っ怪に飾りたてた龍蓮の姿を認めた。

「せっかく会いに参ったのに、何度訪ねても珀は邸に戻らないと聞かされる……だからここまで会いに来た」

 悪びれもせず答えた龍蓮の眉が寄せられる。

「むっ、随分酷い顔をしているな……瞳が真っ赤ではないか」

 
 龍蓮の手が伸ばされるのを、珀明は邪険に払い退けた。

「煩いっ! お前の笛のせいでこの有り様だぞ? まだまだ仕事は山積みなのに……どうしてくれるっ!」

 半分やけくそになりながら、珀明は叫ぶ。

「『闇に響け安らぎの調べ』だ。即興だが良い出来‥」

「どこがだっ!」

 相変わらず奇っ怪な笛の音は、ぎりぎりのところで堪えていた官吏達を皆落とした。

 仕事をしない紅尚書。何時も率先してその穴埋めをしてくれる、敬愛する李侍郎は未だ戻らず──

 それでも、何時も人一倍頑張られる李侍郎の助けになるよう、戻られる前に一つでも仕事を片付けておこうと必死だった。

 それは珀明だけではなく、吏部官吏全員が同じ思いを抱き不眠不休に耐え頑張り続けていたのだ。

「珀明?」

「お前のせいだ、馬鹿」

 珀明の身体からも力が抜ける……僅かに残っていた気力が全部抜けてしまったようだ。

 よろよろと頽れ掛けた身体を、龍蓮が抱き止める。

「馬鹿……」

 珀明はもう一度そう呟くと、完全に意識を手放した。

 

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