宝 殿
□金木犀
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ふと絳攸は顔を上げた。
見慣れた街は、昼下がりの静けさの中にある。いつもと変わらない日。
だが確かに、甘い香りがどこからともなく漂っている。目がその元を探してしまう。
甘く魅惑的な香りは、絳攸の身体も、街そのものも満たしていた。
「金木犀の季節だな」
普段は艶のある緑の葉ばかりで、けっして目立たないその木は、秋のほんの十日ばかりだけ存在感を際だたせる。
そういえば、あいつと大切な約束をしたのも、この香りの中だったと思い出し、絳攸は小さく笑った。
青く澄み切った空が目に眩しかった。
***
「それで、秀麗ちゃんと君の父君との対面式は無事に済んだのかな?」
長年、密かに姪の成長を楽しみにしていたという絳攸の養父、紅黎深が、遂に名乗りをあげる会食が行われると聞いたのは、その当日のことだった。
絳攸と秀麗は仲がいい。家庭教師として、義理の従妹として、絳攸は、秀麗のはつらつとした笑顔と夢を追う姿勢を大事にしている。
二人の姿は楸瑛の心を波立たせるが、この生真面目な恋人は理不尽に苛立ちを持て余す自分をいつも許してくれていた。
それがかえって楸瑛の深いところに傷をつけるのだとは、どちらも気づいてはいなかった。
「あ、ああ。そうだな。まあ、なんとか……」
養父のことになると若干挙動不審になるのは常のことで、紅黎深の人となりは藍家でも有名だったから、楸瑛はくすりと笑ってみせた。
しかし絳攸はどこか強ばった表情のまま顔を背ける。以前ほど無表情の鎧をまとうことは減ったが、それでもたまにこんな顔をする。
――内心を隠したいときに。
「そうだ。秀麗ちゃん、妹と同じクラスなんだよ。気が強くて扱いづらい奴なんだけど、仲良くしてくれているそうだね」
「妹か……。蛍といったか?」
「うん。いつか紹介するよ。大丈夫。ぶっ飛んでいるのは龍蓮だけだから」
「おまえのところは、本当に兄弟が多いな」
強ばりが解け口許を緩めた絳攸は、少しだけ寂しそうに見えた。
楸瑛はその頭を引き寄せ囁く。
「君には私がいるでしょ? 夜は長いし、念入りに慰めて……」
「バカ野郎っ。俺は、寝るっ。いいか、邪魔するなよっ。それ以上近づいたら蹴り出すからなっ!」
真っ赤になって怒鳴った絳攸はいつも通りだった。だから楸瑛は安心して、お休みを告げたのだ。