宝 殿
□金木犀
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蛍がつい口を滑らせたのは、空気がむしむしと暑い夏が去って、爽やかな風が髪をいたずらに撫でていく季節だった。
久しぶりに実家に帰った楸瑛に、三人の兄たちは大学卒業後の進路を提案してきた。大学までは自由にしていい。だがそれ以降は藍家の為に働くようにと、ずっと前から言い渡されていた。今さら不平を言う気はない。
しかし――。
「なあに、楸兄さん。うかない顔ね。三兄様から無理難題を押しつけられたのかしら?」
ぼんやり庭を見つめていた楸瑛は、蛍の声に苦笑いで答えた。
「いや。そんなことはないよ。私も藍家の一員だからね」
「格好つけなくても見ればわかるわ。楸兄さん、ここのところずいぶん変わったから」
隣に腰を下ろした蛍が、こつんと頭を楸瑛の肩にもたれさせた。
藍家の庭は、隅々まで計算された上で自然な趣に見えるように作られたイギリス風の庭園だ。今は秋の花が、茂みのあちらこちらを彩っている。二人の足下にも青い桔梗がいくつも花を咲かせ、甘い香りが風に乗って漂っていた。
「どこかに金木犀があったかな?」
楸瑛の問いに蛍は顔を上げてくすっと笑った。
「植え込みの陰に隠れてここからじゃ見えないけど。ほら、小さい頃にはおままごとに使っていたじゃない」
「そうだったかな?」
「うん」
記憶をさかのぼれば、やんちゃな妹と幼い頃から不思議人間だった龍蓮の世話を任された自分が思い出された。小さな金木犀のオレンジ色の花を両手いっぱいに拾い集めては空に向かって投げた。髪にも服にもオレンジが散って、蛍は笑い転げていたが、龍連はムスッとしたまま落ちた花びらを集めていた。
あれは十歳にもならない時。
一瞬、一瞬がきらきらと光っていた時。
まだ自分は何にでもなれると信じていた時。
(その頃、絳攸はどこで何をしていたのだろうか?)
施設で育ったと知ってはいるが、あまり小さい頃の話を聞いたことはない。話さないのは、あまりいい思い出がなかったからなのか。それならば絳攸が紅家のことをとても気にかけているのもうなずける。
例えば。兄たちの期待を裏切って違う道を行っても、楸瑛にはここが我が家で兄弟たちは兄弟たちだと、何の疑問もなく思える。
でも絳攸は――?
「ねえ楸兄さん。三兄様は私にも縁談を持ってくるかしら?」
楸瑛の物思いを断ち切るように、蛍が唐突に言った。
「縁談?」
蛍はまだ初恋の相手を忘れていない。何よりもまだ高校生だ。しかし鬼畜な兄たちは、必要ならばそれぐらいはやりそうであった。
「そんな話が?」
「ううん。でも秀麗ちゃんが縁談話を持ち込まれたって言ってたから」
「……秀麗ちゃんが?」
「あら、聞いてないの? 家庭教師の先生って楸兄さんと仲良しの絳攸さんでしょ? まあ縁談っていっても義理の従兄妹になるんだし、本人たちにその気があればって軽い話みたいだけど」
ざわっと背中が震えた。まだ迅のことを諦めてはいない妹を不憫に思う一方で、絳攸がその話をどうしたのか、どう思ったのか気になった。
「秀麗、ちゃんは、どうしたって?」
渾身の力で波立つ心を押さえつけ、笑みを作る。
「秀麗ちゃんは、勉強したいこともたくさんあるし、仕事にも夢を持ってるから今は決められないって。やんなっちゃうわねー。私たちまだ高校生よ。私は秀麗ちゃんほど自分の夢を追いかけたいって訳じゃないけど、でも家のためっていうならもっと別の方向で役に立ちたいわ。鹿鳴館の時代じゃあるまいし。内助の功だって立派かもしれない。でも、たとえ恋愛じゃないにしても仕事もダンナも自分の力で選びたいじゃない」
「そうだね」
ポニーテールの頭をぽんぽんと叩いて、楸瑛は立ち上がった。
「おまえは大丈夫。幸せになれるよ。ちょっと、いや無茶苦茶お転婆なところがいいって言う奴が」
蛍は首を傾げて兄の顔を見上げた。表情を作るのは藍家のお家芸だけど、今の楸瑛が作り笑いをしているのがはっきりとわかる。
「楸兄さんこそ、大丈夫なの? 肝心なところが抜けてるから心配よ?」
「妹に心配されるほど弱くはないよ」
嘘をついている自覚はあったが、無理にでも明るくふるまわなければ叫びだしてしまいそうだった。
「また来るよ」
もう一度蛍の頭を叩いて、楸瑛は背中を向けた。
早く絳攸に会いたい。会って確かめたい。
いや。会いたくない。会ったらまた醜い自分をさらけ出してしまう。
会いたい、会いたくない。
捕まえたい、逃げ出したい。
二つの矛盾する思いに目眩を覚えた。
絳攸のこと。秀麗のこと。藍家のこと、紅家のこと。
そして自分たちにどんな未来があるのか。
藍家の門を出て、長く慣れ親しんだ我が家を振り返った。兄たちの提案が、楸瑛に一つの決断を迫っていた。