宝 殿

□金木犀
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楸瑛のマンションを訪れるのは久しぶりだった。
秋の夕暮れは思うよりも早くやってくる。日は沈んで、赤紫だった空はみるみるうちに藍色に変わっていく。
持たされている合い鍵でドアを開けると、明かりはなく、部屋は薄墨を流したように暗かった。

「楸瑛?」

声をかけながらあがると、薄暗闇の中でもぞっと影が動く。

「どうした? 明かり、つけないのか?」

ここは絳攸のマンションよりはるかに広いが、それほど頻繁に訪れることはない。それは、ほんの数十メートルの距離なのにもかかわらず絳攸が迷子になってしまうことと、うっかりすると弟の龍蓮が前触れもなく訪れるからで、二人の時間を過ごしたいのならば絳攸の部屋の方が好都合だからだ。

だいたい楸瑛も合い鍵を持っている。いつでも好きなときにふらりとやってくる。
なのに今日に限ってわざわざ呼び出したのは、何か理由があるのだろうと考えて、絳攸はそっとソファーに近づいた。

「おまえ今日は実家に行っていたんだろう? なにかあったのか?」

青い闇の中に楸瑛の顔が浮かび上がる。そこに普段は張り付けている笑みがなく、絳攸は伸ばしかけた手を止めた。

「秀麗ちゃんと縁談の話があったんだって?」

ひやりとする声がした。

「なんで知ってる? ああ、妹が秀麗のクラスメートなんだったな。そうか、聞いたのか」

「君は、なんて答えたの?」

冷ややかさが増した。戸惑って絳攸は手を所在なく握りしめる。

縁談のことを話さなかったのは、受けるつもりなどないからだ。黎深に引き取られ、黎深の為に、紅家の為に役立ちたいと思うのは変わらない。絳攸が法学を選択したのも、それが役立つだろう、そうして生きていこうと思ったからだ。

そして秀麗には秀麗の夢があり道がある。それは黎深の為に、紅家の為にという絳攸の思惑など遙かに飛び越える大きな夢だった。
秀麗の夢を応援するのと、結婚は全く違う。秀麗には、同じ夢を持った誰かと手を携えて行くのこそがふさわしい。

しかし訥々と語る絳攸の言葉を、楸瑛はあっさりと断ち切った。

「秀麗ちゃんの為に身を引く? そうだね。それが君の本心だ」

苦いものを飲み込んだような楸瑛の表情に、絳攸は息を飲んだ。見たこともないような冷たい横顔に。

「今は秀麗ちゃんもまだ高校生だ。現実味のない話だろうね。だも君は知らない。女の子はこれからの五年でどんどん変わっていくんだよ。五年後にこの話を持ち出されたらどうかな? 秀麗ちゃんは君を慕っている。君は法科大学院を出て、資格を得て、社会に出る。誰からみても立派に釣り合いのとれた二人だろう。その時もう一度、これが紅家の総意だと、君の大好きな黎深サマに言われたら?」

「何、言ってるんだ」

「君に……これを返さなくちゃいけないと思ってね。わざわざ来てもらって悪かったね」

先に決めた台詞をしゃべっているだけのように、楸瑛の言葉は淀みなかった。かちゃっと音をたてて取り出された物を見て愕然とする。

絳攸の部屋の鍵と寝台特急日本海のヘッドマークのキーホルダー。

それは二人が初めて一緒に旅した時に買った物だった。
初めて、絳攸が告げたのも、その旅の中でだった。

――好きだ、と。

手のひらに差し出された鍵の意味を悟って目を見開く。幾つかの記憶がぐるぐると渦を巻いた。

最初はうるさい奴だと思った。何で自分にまとわりつくのか、全然わからなかった。
ずっと人と接するのが怖かった。心を許してもいつか去ってしまうのなら、一人の方がよかった。それでも、寂しかった。寂しいということがどんなことか分からないほどに、寂しかった。

だから引き取られて、家庭というものを教えてくれた黎深にこの思いを返せれば、自分の人生はそれで充分だと思っていた。

傷つかないように心を鎧で固めて、一つの思いだけで毎日を過ごしていた絳攸の殻を打ち破ったのは、楸瑛だ。楸瑛だけが、わめいても怒鳴っても無視しても殴っても、諦めなかったから。当たり前の笑顔で、すんなりとずく傍らに滑り込んで。

いつの間にか楸瑛がいるのが当たり前になっていた。体温を感じて眠る夜に疑問も感じないほどに。

――楸瑛が、好きだった。

「……何故? 秀麗のことか? そんなに俺は信用がないのか?」

楸瑛は小さく笑った。


 

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