宝 殿

□金木犀
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「来年の春。アメリカに行くんだよ。いまどきMBAなんて流行らないけどね。あちらで修士を取って人脈を作り起業する。それが兄たちの意向なんだ。藍家の者ならば一人で藍家に資するほどのものを作り上げるまで帰ってくるなってね。いかにも藍家だろう? 生まれてこの方、楽して生きてきた。そろそろその帳尻を合わせる時がきたんだよ。宴は終わったって感じかな」

「宴だと?」

「そうだろう? 私と君では、まさか結婚するわけにもいかない。将来に何を残すでもない。二人で高みを目指すならそれにふさわしい相手がいるだろう? 君にとってそれは秀麗ちゃんかもしれないよね。もう……ふわふわと楽しいだけの時は終わったんだ。一時の気の迷いだったんだよ」

「気の、迷い……? おまえにとっては単なる一時の遊びだったと言うんだな?」

淡々と、むしろ楽しげに話す楸瑛は、いかにも楸瑛らしかった。相手に心を預けず、笑顔でするりとかわすその様は。

だが何かが違う。出会ってから積み重ねてきた時間の中で知った楸瑛ではない。第一、絳攸が来てから一度も視線を合わそうとしない。とてつもなく違和感があった。

「楸瑛。終わりだと言うなら。俺の目を見て話せ。俺の目を見て、はっきり言え。今までの全てが遊びだったと。言ってみろっ!」

ゆっくりと楸瑛の首が回る。唇に笑みをともしたまま。黒い瞳が真っ直ぐに絳攸に向けられる。気づかないうちに部屋は闇の底に沈んでいた。その中で楸瑛の白い歯が見えた。

「絳攸。ゲームは終わりだよ。楽しかった。それじゃあ」

まるで握手でもするかのように絳攸も手を伸ばし、キーホルダーを取り上げる。
瞬間、それを楸瑛に向かって投げた。

とっさに避けようと顔をそらした隙に、伸びたままの手首を掴んで、空いた手で頬を殴りつける。
不意をつかれて楸瑛は、ぐらっとよろめいた。

「絳攸?」

「本心を何も語らないまま、勝手に幕引きなんかさせるか、バカ野郎っ。嫉妬だか、将来への不安だか知らんが、何もかもを飲み込んだつもりになって一人で格好つけやがって。おまえみたいな色情魔で頭に花を咲かせた常春なんか、アメリカで豆腐に頭ぶつけて死んじまえっ!」

「豆腐は……アメリカにあるかなあ」

「バカ野郎、ヘルシーフードで珍重されてる
だろ。豆腐に蜂蜜でもジャムでもつけてますます花を咲かせるんだなっ」

もう一発と振りあげた腕は簡単に捕らえられた。

「そういつもいつも殴られると思ってるの?」

平静を保っていた楸瑛の瞳が、苛立たしげに細められる。

「せっかく格好つけてきれいに別れようと思っていたのに。そんなに私に抱かれるのが気持ちよかった? 君、身体も細くて白いし。私の腕の中で女の子みたいに喘がされて鳴いていたよね? そんなに私に挿れられたいの? どっちが淫乱で色情魔なんだろうね、絳攸?」

わざと怒らせようとしている。だが本心を覆い隠した笑顔よりずっとよかった。
掴まれた腕をそのままに思い切り弁慶の泣き所を蹴りあげる。
楸瑛は飛び退いて、初めて拳を固めた。

――そうだ、怒って喚いて吐き出しちまえっ!

「ああっ、よかったよ。だから今度はおまえをよがらせてやるっ」

言うなり飛びかかる。
衿を掴んで振りあげた拳は遮られ、お返しのように腹に膝が入った。
身体を折って膝をつき、ついでに目の前の足に組み付く。
バランスを崩した楸瑛が床に倒れると、二人とも自分が馬乗りになろうと転がりながらもがいた。

互いに腕を振り回し、幾つかは避けられ、幾つかが頬や肩や胸に当たる。
もう秀麗のことも、将来のことも頭から吹き飛んでいた。ただがむしゃらに相手に向かっていく。
汗が息がかかる。

一番近くにいるのに掴むことが怖い何かを、打ち破ろうともがいた。


 

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