宝 殿

□甘眠
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「で、話があるんだろう?」

 二日前に降った雪がまだ歩道の端に残っている。さすがにオープンテラスには人影もなく、二人は大学近くのカフェの日の当たる窓際の席に落ち着いた。行き交う車が隅に溶け残る雪を黒く染めて通り過ぎていく。それを横目に見ながら、大盛りのパスタランチを注文して、先に持ってきてもらったコーヒーとカフェモカをそれぞれ口に入れる。

「今、忙しいのか?」

 しかし絳攸はすぐには本題に入らず、まずは楸瑛を気遣った。それを察してつい苦笑いを浮かべる。

「忙しくしているのは自分自身だからね。こんなものでいいかと妥協すれば暇なんて幾らでも作れるよ」

 絳攸は片眉だけ上げて同意した。常春でいい加減に見えるが、藍楸瑛は己に妥協を許さない。自ら課したものはきっちりとやり遂げるが、ただそれを面に表さないだけなのだ。そしてこの男は常に高いハードルを設置する。

「具体的には、何をいつまでなんだ?」

「君にしては回りくどいね。本題に入ってくれていいよ。聞いて決めるのは私だからね」

 
 だから気遣いはいらないと言外に言われて、絳攸は少しだけ口角を引き上げた。この矜持の高さが藍楸瑛のもう一つの顔だ。変態の色情魔というだけでは惹かれはしなかっただろう。

「春休みにおまえが旅行の計画をたてると言ってもらったのに悪いんだが」

「都合がつかなくなったのかい?」

「いや、そうじゃない。ただ、その前に」

「春休み前?」

「そうだ。一泊でちょっと行きたいところがあるんだが」

 行きたいんじゃなくて、乗りたいんだろうと楸瑛は思って、年末年始を思い出す。なかなか刺激的で楽しかったが、まさに乗るだけの旅だった。絳攸にも乗ったのだからいいか、と瞬時に脳内に花を咲かせたが、それは顔に出さないように気をつけて、先を促す。

「その……この春で廃止になる寝台特急があるんだ」

「ふぅん、行き先は?」

「金沢」

「それに乗りたいんだね?」

「ああ。廃止直前だから混んではいたんだが、何とか切符は取れた。だが日にちが」

「いつなんだい?」

「三月十二日、金曜日の夜。だが無理はするなよ。黙っていくのも悪いかと、一応おまえを誘っただけだからな。春休みにはまた別に行くんだろう?」

 
 それは今修羅場を迎えているゼミのレポート提出とプレゼンの日だ。そして終わってからは教授を囲んでの打ち上げがある。一年間激論を戦わせてきた仲間だから、それには参加するつもりでいた。気遣いはありがたいし、春休みの予定も嬉しいが。

「えっと。正確にはなん時かな?」

 やっぱり絳攸との旅の機会を逃したくはない。

「夜、十一時〇三分。上野から出る」

 十一時。それなら少なくとも一次会には出られる。

「大丈夫だよ。何とかなる」

「無理は……」

「決めるのは私だよ。君だってそうだろう?」

 不敵に笑ってみせると、絳攸はふぅっと息を吐いた。

「ならいい」

「ところで」

 楸瑛の笑みが変化して艶を帯びる。ちょうどカップを置いた手を引き寄せると上体を乗り出して耳元で囁いた。

「今度もカーテン一枚かい?」

 前回の記憶がいろいろと蘇ったのか、絳攸は途端に耳まで真っ赤になった。

「こ、個室だ。ただし。全室一人用だからなっ」

「わかった。楽しみにしておくよ」

 絳攸の表情をたっぷり楽しんでから手を放す。やっぱり馬の鼻先には人参だよね、と楸瑛は自分に突っ込みを入れた。
 

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