宝 殿

□甘眠
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 発車まであと十分。楸瑛は長い足をフルに生かして地下鉄の階段を駆けあがった。前回は絳攸のマンションから出発したが、今回は駅に現地集合だ。ゼミの打ち上げの真っ最中に、そういえば絳攸は迷わずに上野まで行けただろうかと思ったら心配でならなかった。三十歩歩いただけで方向を見失いかねないのだ。

 途中で携帯に電話をしたが圏外にいるらしくて繋がらなかった。地下鉄ならいいが、まさか上野に出るつもりでどこか山の中にでも行ってしまってないだろうかと、馬鹿馬鹿しいとも言い切れない心配をした。

 だいたい今週はほとんど顔も見ていない。何度かすれ違った折りに切符を渡されただけだ。メールは何度かしたが、返事はいつも素っ気ないほど簡潔で、絳攸がどこで何をしていたかさっぱりわからない。

 これでは心配性の母親みたいだと思ったが、気にかかるものは仕方がない。

「絳攸!」

 改札を通り過ぎ、特急の出るホームの端に着いたとき、目指す相手の仁王立ちの姿を遠目で見つけ、楸瑛は思わず大声で呼びかけて手を振った。しかし当の本人は駆け寄るのを確認したら気が済んだらしく、手を振り返すこともなく、くるりと背中を向ける。

 
「絳攸、ごめん。あの、遅かったかな」

「いや、そうでもない。まだ後五分はある」

 前回の教訓に鑑みて、さすがにスーツケースではなくバック一つに着替えを詰めてきた。しかしそれよりもゼミでのプレゼンに使った資料やノートパソコンの方が大荷物だ。

「一つ寄越せ。持ってやる」

 絳攸は相変わらずぶっきらぼうに言うと、一番重そうなノートパソコンと資料の入った鞄を取り上げた。

「今日は写真はいいのかい?」

「おまえが来る前に撮った」

「へぇ、ちなみになん時に来たの?」

「夜九時にはいたかな」

―――く、九時?

 それから二時間、何をしていたか聞く勇気もなく、楸瑛は大人しく後について乗車する。

†・・†

「あぁ、本当に個室なんだね」

 絳攸が取ってくれたのは一人用個室ソロ。平均より長身の男が二人入るとかなり圧迫感があるが、それでもちゃんと鍵も閉まる。これで先日の開放型寝台と同じ値段だというから不合理な気もする。

「俺の部屋はこの真下だ」

 
 案内した絳攸は荷物をベッドに置くと親指を下に向けた。

「それからこれはシャワー券。今日は混んでいるから待つ羽目になるかもしれんが」

 礼を言って受け取ると、楸瑛はベッドに腰を下ろした。

「大丈夫か? かなり疲れているぞ」

「そうかな。でも平気」

「強がりを言わないで早く寝ろ。寝てないんだろう?」

「そうだけど。顔に出てた?」

 絳攸は眉を寄せて首を振った。

 楸瑛は疲れているとか、悩んでいるとか。滅多なことでは顔に出さない。ぶっ倒れる寸前まで笑顔を貼り付けたままだろう。笑顔が擬態だと批判したが、その為にどれほどの努力を払っているかを考えたら安易に口に乗せた自分が腹立たしい。

「心配しなくても表情には出ていない」

「心配、はしてないけどね」

 変わらず微笑んだまま楸瑛はごろんと横になった。本音を言えばこの一週間いつ寝ていつ食べたのかすら記憶が曖昧だ。何かを為すならば常に最高のものをと自分に課してきた。その上なりふり構わず髪を振り乱しても、というのも自分にはそぐわないから面には出していなかったはず。だが身体の芯から疲れが沸き上がり指先にまで満ちている。

 
「はっ、弱いな」

「そんなことはない」

 つい独り言のつもりで口に出た弱音を間近で否定されて、楸瑛は目を開けた。

「疲れたら休めばいい。それだけのことだろう」

 いつになく穏やかに言われたとき、がくんという振動とともに列車が動き出した。
 

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