宝 殿

□甘眠
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 疲れてよれよれのくせに平気な顔をしたがる楸瑛をシャワー室に押し込んで、絳攸は自分の個室で転がった。中国の法制史の論文に目を通しながら楸瑛のことを考える。

 他人に弱さを晒したくない気持ちはよくわかる。自分も恐らくそういった人間だろうから。だが、楸瑛はその上無駄に笑顔を振りまきすぎる。余分なエネルギーを消費している、と思う。

 だから人は、藍楸瑛なら大丈夫だろうと安易に考えるのだ。彼に言えば。彼に任せれば。大丈夫だと。そういう自分もその一人だ。楸瑛が大丈夫だよ、と笑顔で言えばそうかと思ってしまう。

「お人好しにも程があるだろう」

 忌々しげに薄い論文の冊子を床に投げた。誘ったりして悪かった、つき合わせて悪かったなどと言えば、また何でもない顔で首を振って、自分が来たかっただけだよ、と笑うだろう。だからそれは言わない。

 明日の早朝にこの列車は金沢に着く。そうしたら余計な場所など巡らないでとっとと東京に戻ろう。殴ってでも寝かさなくては。

 思い巡らせていると、コンとドアが叩かれて楸瑛が顔を出した。

「シャワー浴びたらさっぱりしたよ。でも今混んでいるんだ」

 
「ああ、だろうな。構わない。俺は夜中でいいから」

 楸瑛は床に落ちていた冊子を拾うと壁際に置かれたリュックの上に置いて、窓の外を見た。

「今、どの辺?」

「大宮を過ぎて熊谷の辺りかな」

「カーテン閉めないの?」

「この列車に乗ることはもうないんだ。廃止になるから。だから通過駅の様子も見たいんだ」

「へえ、そうか」

 二階式の寝台車の天井は低くて立っていられない。楸瑛は絳攸と並んでベッドに座る。

「誘ったりして悪かったとか思っているんじゃない?」

「いや。来たいと言ったのはおまえだろう。ちゃんとつき合えよ」

 楸瑛はくすりと笑った。

「絳攸、好きだよ」

「馬鹿。盛るな。俺はこの列車をとことん楽しみたいんだ。おまえは自分の部屋に行ってさっさと寝ろ」

 絳攸は車窓に顔を向けたまま答える。やっぱり殴って寝かしてやろうかと考えていると、肩に手が延ばされる。シャワーを浴びたばかりのその手は僅かに湿り気を残していて、うなじから耳朶に触れられると躯の奥が熱くなる。

「絳攸」

「何だ」

 
「身体は疲れているのに頭が冴えて眠れない」

 確かに、徹夜を続けているとそういうことはある。

「酒でも飲むか?」

「君が欲しい」

 引き寄せられた頬に口をつけて囁かれて、ぞくりと背中が震えた。

「甘えるな」

「甘えるよ。君にしか……甘えられない」

 切なげに訴えられて、窓から楸瑛に目を移すと、濡れて冷えた髪が首筋に落ちる。

「ちゃんと乾かさないと風邪を引く」

 体重をかけてくるのを押し返そうと胸に手をかけたら、絡め取られて引き寄せられる。そのまま熱い唇が鼻に当たり、そして口を塞がれた。

 薄く開いた絳攸の唇を割って舌が入り込む。念入りに唇を、歯列を舐め取られ、更に奥に入ってくる。絳攸は抗わずにその深いキスを受けた。二人の唾液が混じりあって口の端からこぼれ落ちる。

「キス、上手になったね」

 口を合わせたまま揶揄うように言う楸瑛にかっときて、絳攸は軽く下唇に噛みついた。

「―――っつ」

「誰のせいだと思ってる」

「私のせいじゃないと困るな」

 
 噛まれて赤くなった唇をぺろりと舐めて楸瑛はまた笑った。その目が艶やかに扇情的に煌めく。

「今夜は大人しく寝ろ」

「嫌だよ。だって寝られない」

 言うなり絳攸の肩を掴んで首筋に顔を埋める。冬の寝台車は暖房がきいている。Tシャツ一枚だった絳攸の胸に楸瑛の体温が伝わる。背中にまわった手がシャツの中に入り、肌の上を滑る。
 

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