パラレル

□プロローグ
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【プロローグ】


歴史の色濃く残るレンガ造りの通りからは、美しい海に沿ったゆるやかな丘が見渡せる。そこから覗く夕日の鮮やかさといったら。警官も、ギャングも犯罪者も一様に口をそろえて言うのだ。「心が洗われるようだ」と。
見所の多いこの街の、それは一つの名所だった。

その通りから一本外れた裏通り。古めかしい、しかし汚さは不思議と感じさせない茶色い扉をくぐると現れるそのカフェは、寂れたその通りにひっそりとそびえていた。

営業時間は日のあるうちだけ。独自にブレンドされた紅茶や洗練された豆で淹れられるコーヒーに並んで味わえるランチは、派手さこそ無いものの確かな味と幸せを食べる者にもたらした。
これで、もう少し金を出して表通りに店を構えていれば。もしくは夜もレストランとして営業していれば。売り上げはどれほど伸びただろうか。誰よりもシェフの腕を確信している少年は思った。

と同時に当のシェフにせっつかれ、慌てて入り口のドアを開きに行けば、今まさに自分を使い走った金髪の青年は、その端正な顔に営業用の柔らかな笑みをたたえてみせた。

「ボンジョルノ、シニョリーナ。今日あなたの口に入ることが許される幸運な料理はいったいどれだろうな?」



少年に支えられて店内へと入ってきた老婦は、クスクスと上品に笑って席に着いた。

「嫌ね、またそんなことを言って。こんなおばあちゃんをからかわないでちょうだい」
「からかってなんかねぇよ。あんたは歳食っても美人だぜ?結婚さえしてなけりゃあ俺が交際を申し込んでやったのによ。
……で?いつものちっこいダンナはどうした?」
「仕事よ。いつものとおり。まったくあの人ったらいつだってボス、ボスって。今日だって二人でここに来る予定だったのに、緊急で呼び出されたからって二つ返事ですぐ出て行っちゃったのよ。会社が休みの日くらいゆっくりすればいいのに」
「仕事人間ってのは情緒がなくていけねえな、ったく。次はひっぱたいてでも連れて来いよ。俺が一つ説教をくれてやる。"こんな美人を放っておいたらいつか俺みたいな男に取られっちまうぜ"ってな。……おいペッシ、水だ。持ってってやんな」

レモンはサービスだ。
言って、サーバーから汲んだ澄みきった水にレモンの輪切りを浮かべて少年に渡す。同時に注文を受けて、カチリとコンロに火をつけた。

「はい、お冷や。よかったら膝掛けも持ってこようか?寒くないかい?」
「大丈夫よ、ありがとう、ペッシ。あなたは本当に気が利くのね」
「へへ……おれまだこれくらいしか出来ないし。いつも迷惑かけてばっかりだから、少しでも兄貴の役に立ちたいんだ」
「あら、十分役に立ってると思うわよ?テーブルのお花、飾ったのあなたでしょう?バラバラだったテーブルクロスやお皿の種類を揃えたのもあなた。すごく素敵よ、こういう気遣い。あの子は料理以外のことには気が回らないから」
「……おいおい、本人を目の前にして悪口はやめろよ。おらペッシ、サラダ」

カウンター越しに手渡して、気まずそうに笑ってそれを運ぶペッシの背中を見送ってから、トマトを刻んだナイフを布巾で軽く拭う。
続いて硬めに茹でた生パスタをあさりとバターとホールトマト、ほんの少しのニンニクと香り付けの白ワインで絡めるように炒め始める。
ボンゴレ・ロッソは彼の得意料理の一つだった。

「あなたが来てからもう3ヶ月だったかしら?ペッシ…」

運ばれたサラダをフォークで突きながら、老婦は懐かしそうに目を細めた。

「あなたが来てくれて本当によかった。心配していたのよ。このお店の前のオーナーが外国に行ってしまってから、プロシュートは一人でお店を切り盛りしなくちゃあならなかったんだもの。一人になって寂しそうにしているプロシュートは見ていられなかったわ」
「誰が寂しそうだったって?」

不機嫌そうなプロシュートは、今度はパスタの乗った皿を持ってきて老婦の前に置いた。

「適当なこと言うなよ、ちっとも寂しくなんかなかったね。あの人は夢を追っかけて出て行ったんだからよォ、むしろ応援してたぜ、俺は」
「あら、あの人が出て行く最後の日までぶーたれながらごねてたのは誰だったかしら?」

老婦がクスクスと笑うと、プロシュートは赤くなった顔を歪めて舌打ちをした。

「……いいからさっさと食えよ。冷めちまうだろ」
「そうね。そうするわ。あなたの料理を食べると不思議と体の調子がよくなるの。前のオーナーの教え方がよかったのかしら」
「失礼だな。そりゃあ俺の実力だ」
「はいはい、確かにあなたは若さに似合わないくらいの実力を持っているわよ。
……ここがイタリアじゃあなければ、カフェなんかじゃなくリストランテとして十分にその腕を振るえたのに。残念ね…」

言って、老婦はわずかに視線を落とした。



――歴史の長いここイタリアでは、料理の腕はもとよりその「経験」を重要視する風潮がある。いくら料理人としての腕がよくても、「経験が浅い」というただそれだけの理由で軽視され、蔑まれてしまうのだ。
プロシュートは思い出していた。自分の師匠にあたる男に投げつけられた謂われのない暴言や陰口。営業年数が長いというだけでふんぞり返っているリストランテのオーナーが流した根も葉もない悪評。若い人間はそうでもない。しかし、歳をとって頑固が凝り固まったようなイタリア人は、総じて若い料理人を見下した。
それでも、男は看板を下げようとはしなかった。若いというだけで、ようよう味のわからない馬鹿達に罵られ、苦笑いをしながらも、あくまで故郷であるこの街で"リストランテ"を続けたいと願っていたのだ。

しかし、それもいよいよ限界だった。

ある日、男は言った。自分はこの国を出て行くのだと。年齢も経験も関係なく、平等に料理だけを評価してくれる国に行くのだと。

どうしても彼と共に外国へと行くことのできなかったプロシュートは、もちろん反対した。少しずつだけど味のわかる固定客がついてきたじゃないかと。もう少し頑張ろうと。しかし、男の決意は固かった。それはプロシュートの腕を信頼してのことだった。彼ほどの腕と頭があれば一人でやっていけると、男はそう確信したのだ。
男はその日に貯金を下ろした。次の日には荷物をまとめた。そして三日後。歯がゆそうに顔を歪めるプロシュートへ、この店と、しばらくやっていくだけの金を残して、長い間諸外国を旅して最も印象に残ったという、東洋の小さな島国へと旅立ってしまったのだ――



「……皮肉なもんだぜ。最高の腕と信念を持って最後までリストランテにこだわったあの人よりも、料理をメインとしない、ちっぽけなカフェとしてリニューアルした俺の店のほうがイタリア人には認められるんだ。こうして本物の料理人は消えていく。
……変だよ、この国は」
「……そうね。でも私はあなたが残ってくれて嬉しかったわ」

眉間にしわを寄せて椅子の背もたれに手をかけるプロシュートに、老婦は笑ってみせた。

「トニオが居たときから、私はここがとても好きだったもの。お店を畳んでしまわなくてすごく安心した」
「……あんたくらいだよ、そうやって、本当に味だけを見てくれる年寄りなんて」
「あと、私の旦那もよ」

いたずらっぽく笑った老婦は、肩を小さく持ち上げて「あなたが乗り物に乗れなくて本当に助かったわ」と言った。

「飛行機もダメ、バスもダメ。船もダメだし列車なんてもってのほか。どうしてかしらね?いつもは何があっても怖いもの知らずって顔してるのに」
「うるせーな、ダメなもんはダメなんだから仕方ねえだろ。なんでか嫌なんだよ、産まれたときから。線路なんて見るのも嫌だね、規則的に延々繋がりやがって気持ち悪ぃ」

車は平気なんだけどなァ……呟いたプロシュートは、老婦の皿がいつの間にか空になっていることに気付いてカウンターに戻りかけ、そちらから湯気の立ち上るカップを持って慎重に歩いてくる弟分を見つけて嬉しそうに口元を緩めた。

「気が利くじゃねえかペッシ!エスプレッソか?」
「うん、兄貴!豆はこの間教えてもらったとおりに挽いたよ!温度もいいと思う。……お客さんに出すの、初めてだから緊張するけど」
「大丈夫よ、色も香りもとても良いわ。丁寧に淹れてくれたのね。……優しい香り」

カチャ、と目の前に置かれたソーサーに鼻を近付けて、香りを楽しむ。その様子を満足そうに見ていたプロシュートは、ふと我に返って言った。

「おいペッシ。ミルクと砂糖は?」
「…………あ」

忘れ、ました。
気まずそうに言ったペッシは、額に手を当ててため息を吐くプロシュートを後目に慌ててカウンターに戻っていく。
それを見て、老婦は口元に手を当てて笑った。



カチャ。飲み終わったカップをソーサーに戻し、老婦はナプキンで口元を拭った。

「ごちそうさま。今日もとても美味しかった。次は旦那と一緒に来るわ。……彼が仕事より私を愛してくれたらだけれど」
「大丈夫ですよ!ペリーコロさんは愛していますよ、奥さんのこと!」

慌てたペッシが首を振ると、老婦は心から嬉しそうに笑った。

「ありがとう。じゃあ絶対に連れてこなくちゃあね。それこそひっぱたいてでも」

フフフ、とプロシュートに視線を送って、立ち上がる。ペッシが支えるようにその手をとると、少し多めのチップをテーブルに置いてそのまま出口に向かう。

「これから忙しくなるでしょうけど、今日も一日頑張ってね。でも無理はしちゃあダメよ」
「わかってる。あんたも帰り道には気をつけろよ。近頃はマジに物騒だからな」
「もし何かあったらいつでも来てね、おれたち、いつでもここに居るから」
「ええ。必ず」
「じゃあな。グラッツェ」
「アリーヴェデルチ!」

閉まった扉に付いていたベルがカラン、と鳴る。
ガラス張りの扉から覗く空は綺麗に晴れ渡っていた。
今日も忙しくなるな。思ったプロシュートは皿を洗っているペッシに向かって気合いの入った声をかけた。元気よく返ってきた返事に気をよくして、もう一度空を見上げる。

カフェテリア・トラサルディーの一日は、こうして始まるのだ。

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