作品2

□注文の多いチーズ料理店
1ページ/2ページ

深い深い山の中、一人の若い男がほうほうの体で歩いていました。名はイルーゾォ。彼は、麻薬を横流しした罪で組織に追われ、山奥にまで逃げてきたターゲットの男を一人始末するためにその姿を追って同じく山に踏み入れたのでした。そう、イルーゾォは暗殺者だったのです。

しかし彼は今、たいへんに困っていました。

「また……この木か……ッ」

先ほど道しるべのために傷をつけた幹を目の前にして、イルーゾォはイライラと木を殴りました。辺りを見れば、同じような幹がいくつも並んでいます。さっきどちらに向かったか、それすらわからない状況で彼はずっと同じところをぐるぐると回っているのです。可哀想なことに、ターゲットを夢中で追うあまり予想以上に山の奥へと踏み入れてしまった彼は、帰り道がわからなくなってしまっていました。

真っ先に確認した携帯はもちろん圏外です。鬱蒼とした木々は頭上を覆い隠し、太陽の位置も掴めません。いま自分は北に向かっているのか南に向かっているのか、山を下っているのか登っているのか、それすらもわからない状況で、元々少なかった彼の体力は尽きる寸前です。お腹もひどく空いてきました。しかし、持ち物といえば暗殺に使う拳銃とナイフとスタンド用の手鏡くらい。イルーゾォは泣きそうでした。こんな事ならカロリーメイトの一つや二つポケットに詰めておけばよかったのです。後悔先に立たず。その諺を彼はいま言葉でなく心で理解しておりました。

「ふぅう……。くそっ……元はといえばあの野郎がこんな山なんかに入らなけりゃあよかったんだ……ッ! 素直に街外れで殺されてりゃあこんな事にはならなかったッ! 腹減ったし寒いし暗いし怖いし……なんなんだよ……なんなんだよォもう……ッ!」

イルーゾォはもう一度木を殴りつけました。瞬間、彼はその木にしがみつかざるを得ませんでした。突然木々の間を突風が吹きぬけていったのです。細身の彼の体を吹き飛ばそうとでもするような嵐のような風に、思わずぎゅうっと両目を瞑ります。やがて風は止みました。そして、ふと後ろを振り返り、仰天してしまいました。

「Ristrante-Formaggio(リストランテ−チーズ)……だって!? い、いつの間にかこんなものが……」

いったいいつ建ったのか、それとも自分が気付かなかっただけなのか。彼の背後には、立派な造りの西洋風な建物が建っていたのです。もくもくと白い煙のたつ煙突。玄関口のライトに照らされた『OPEN』の札。そして何より、うっすらと匂う焼けたチーズのいい香り。イルーゾォの心は、それを不審だと思うより先に「助かった」という思いでいっぱいになりました。店にはきっと人がいます。暖かい空調が効いています。美味しい料理があるはずです。店の人に聞けば帰り道だってすぐわかるはずです。入り口の立て看板にはこうありました。
『どなたもどうぞお入りください。若い男、痩せた男、黒髪ロングの男は特に大歓迎。たくさんサービスさせて頂きます』
彼は迷わずその扉を押し開けました。


シャンデリアのような洒落た照明。質の良い赤絨毯。嵌め殺しの窓はどこもかしこもピカピカに磨かれています。イルーゾォは財布の中身を確認しながら廊下を進みました。幸いなことに金なら余分にあります。少し高そうな店ですが、これなら一人分の食事代を出したって優に事足りるでしょう。そうして廊下を進んでいると、一枚の扉に行き当たりました。

「この中……がレストランなのか?」

押し開けると、しかし彼の予想とは違った光景が目に入りました。扉を開けると、数歩先にまた扉があります。ロッカールームのような狭さのその部屋には、竹でできたカゴが一つしか置かれていませんでした。首をかしげながら踏み入れると、立て札が一つありました。深い緑色の板に金色の文字が彫られているそれを見ると、
『当レストランは注文の多い料理店です。面倒なこともあると思いますが料理の腕は確かですのでどうかご了承くださいませ』
と書かれています。さらにその下には
『一つ目のご注文です。カゴの中にあるブラシで髪を整え、靴についた泥を落としてください』
とありました。

「ああ、なるほど。さすがは高級そうな店だな。身なりをきちんとしなければ入れてやらないぞって事なんだろう」

イルーゾォは納得して、獣道を歩いた際についた靴の泥を落とし、乱れた髪を結びなおしました。手鏡でチェックを済ますと、くぅ、と鳴った腹をさすりながら次の扉を開いて進み出ます。

「……あれ」

そこはやはり、狭いばかりの個室でした。カゴが一つ。立て札が一つありました。
『危険物がございましたらこちらにお預けください』
イルーゾォは逡巡しましたが、先ほどの立て札を思い出しました。注文が多いとはこのことか、と。確かに拳銃をたずさえて料理を味わってはシェフに失礼です。拳銃を置いて、ナイフもその上に乗せて次の扉に進みます。大丈夫、いざとなれば俺にはマン・イン・ザ・ミラーがついている。そう思ったのでした。が。

『財布、手鏡、万年筆、靴の中に仕込んだ仕込みナイフ。食事の際に危険となりますのでそれぞれ全て横の金庫にお預けください』

次の扉をくぐった先、用意された重厚な金庫を目の前に、イルーゾォは初めてこの店を不審に思いました。財布や万年筆はまだしも、仕込みナイフなど、わざわざ看板に書くほど一般的だったでしょうか。思わずきびすを返そうとした彼でしたが、ふと足を止めました。立て札の文字には続きがあったのです。

『注文が多く大変お待たせして申し訳ありません。大丈夫、もう少し我慢すればあなたはすぐに食べられます。よければこちらの食前酒をお飲みくださいませ』

サービスです、との文字の横、いつから用意されていたのか三角のカクテルグラスによく冷えた食前酒が注がれていました。それに添えるよう、綺麗に盛られたカナッペが二口分用意されています。出口とそれらを見比べたイルーゾォでしたが、くう、と鳴った腹に急かされるよう、ついカナッペに手を出してしまいました。

そのものの、美味しいことといったら。

薄く切られたフランスパンの上に乗せられたカマンベールと生ハムは、最高の相性でした。荒く振られた黒こしょうと匂いの強いオリーブオイルがまた旨みを引き出しています。もう一つのカナッペにはうっすらと塗られたマスカルポーネチーズの上に細かく切った白オリーブの実とアボカド、そして海老が一匹乗せられています。こちらも絶品でした。少しクセの強いカクテルを含むと、不思議とカナッペの味わいがますます口いっぱいに広がるようでした。シェリーとベルモットを合わせて味わうこのカクテルはアドニス。『美少年』という意味を含んでいるのですが、この店の味にすっかり魅了されたイルーゾォは気付きもせずにそれらを平らげると、全ての持ち物を金庫の中に突っ込んで急ぎ足で次の扉を開きました。彼の頭はもう、この店のメニューを早く食べつくしたいという思いでいっぱいだったのです。

『汚れた体を清めてください』

扉と扉の間に用意されていたシャワー室を前に、イルーゾォは迷わず服を脱いでいました。ターゲットの血に濡れたナイフは近くの川で綺麗に拭いましたが、服の袖や体にはわずかに返り血がついてしまっていたからです。そうだな、この体でレストランに入るのは失礼だ。一面鏡張りの浴室の中で頭の先から足の先まですっかり綺麗に清め終わったイルーゾォは、シャワー室を出て驚きました。脱いだはずの服が消えていたのです。その代わり、竹のカゴに入れられていたのは純白のバスローブ。その上に『服は汚れが酷かったので洗って後ほどお返しいたします』という置手紙がなければ、焦ってまた不信感を募らせるところだったでしょう。なんてサービスのいいレストランだ。彼はバスローブの紐を固く結び、次々と同じような扉をくぐっていきました。

『瓶の中の粉を全身にはたいてください』
とベビーパウダーが置かれていれば、乾燥防止と納得してその通りにしましたし、
『トイレは先に済ませておいてください』
とあれば、なぜか前面が鏡張りだったガラス製の便器に向かってきちんと用を足しました。本編には関係ない話ですが、この世にはマジックミラーというものが存在します。関係ない話ですがね。

そうして次の扉を開いたとき、イルーゾォは心の底から歓喜しました。目のくらむような輝かしいシャンデリア。毛足の長い絨毯。その中央に、純白のテーブルクロスがかかった丸テーブルが一つ。今までとは明らかに違う空間に、イルーゾォは期待をもってきょろきょろと辺りを見回しました。誰も居ません。すみません、と三度声をかけました。返事はありません。が、誰かが居るのは確実なのです。その証拠に、この店の玄関で香った食欲をそそる匂いはますます強くなっています。すんすんと鼻を鳴らし、目を閉じて、まだ見ぬ料理に胸をときめかせていました。

「いらっしゃいませ」
「ひっ」

あんまりにも匂いに夢中になっていたからでしょうか。イルーゾォはすぐ後ろに迫っていた男の気配に気付きませんでした。振り返ると、上下きっちりとウエイター服に身を包んだ長身の男がにこやかに立っています。服の上からでも彼のガタイの良さが見て取れました。二本の剃り込みこそありますが、綺麗に丸く刈られた赤髪は彼の爽やかさを際立てているようでした。「こ、この、店の人……だよな?」問うと、にっこりと笑ったウエイターは頷いて、「遅くなってすみません、少し前かがみになっていたもので。いやあ失敗しました、お客様用トイレの位置はもっと入り口に近い段階で設置したほうがよかった」と意味不明な事を言いました。いささか不躾なほどにこちらをじろじろと見、いやいやたいへん美味しそうなものをお持ちで、などと半笑いになる意味もよくわからなかったのですが、今はもう落ち着いたので安心してください、とこれまたよくわからない笑顔で言われたので一応は納得し、促されるまま椅子に腰を落ち着けました。

ウエイターはすぐさま両開きのメニューを持ってきました。それをイルーゾォの前に広げ、「で、どれにします?」と妙に馴れ馴れしく肩を抱いてきます。しかしイルーゾォはその行動に突っ込むことはありませんでした。それより先に、ある事が気になって仕方が無かったのです。

「あ、あのさ……」
「はい? 何です?」
「お、俺の、服……まだ返してもらえないんだろうか」

そう言って身を縮めるイルーゾォは、今だバスローブ姿でした。さっきからもじもじと裾を手で押さえているのは、服が下着ごと消えていたからです。文字通りバスローブ一枚しか身に着けることを許されていないイルーゾォは、きっちりした服でビシッと全身を包んでいるウエイターと並んでいることに気恥ずかしくなったのです。タオル地の生地を挟んでほぼ直に椅子に接している尻が落ち着きません。しかしウエイターは、申し訳なさそうに眉を顰めると、乾燥機にかけてはいるのですがもう少し時間がかかるもので、と必要以上に耳元に近付いてきては低い声を吹き込みました。

「大丈夫です、今いるお客はあなた一人。この店には俺たち二人きりじゃあないですか」
「二人きりって……あ、じゃあもしかして料理を作るのも……?」
「俺です。……どうでした? ご用意いたしましたカナッペは」
「美味かったよ。味付けはもとよりあんなに美味いチーズ食ったの初めてだ。さすが店名がフォルマッジョなだけはあるよな」
「ふふふ、好きですか? フォルマッジョ」
「ああ、好きだな。好物なんだよ、フォルマッジョ」
「好きなんだ」
「ああ」
「大好き?」
「そう」
「もっと食いたい?」
「ああ、できればたくさん食べたいな、フォルマッジョ」
「…………ふふ、大丈夫、あなたはすぐに『食べられます』よ」

何故か含み笑いをするウエイターを後目に、イルーゾォはメニューを眺めました。これだけ美味いチーズを出す店だ、前菜はカプレーゼで決まりだな。チーズフォンデュ……はあんまりにもコテコテか? こっちのチーズリゾットのほうが定番……いやでも、カルボナーラなんてチーズと卵の兼ね合いが最高にウマいんだよなぁあ〜……。何はともよりデザートはチーズケーキに決まりだが。うんうん唸るイルーゾォは、結局ページの最後にあったコース料理を頼んだのでした。何よりコースのデザートの後に書かれていた『スペシャルメニュー』なるものが気になったのです。

値段の書かれていない不思議なメニューを閉じて顔を上げると、いつの間にか自分の隣から消えていたウエイターは、いったいいつ着替えたのか、コック服を身に着けて厨房に立っておりました。「いやいやありがたい、あなたならコース料理を頼んでくれると思ってましたよ」嬉しそうに両手を揉み合わせ、素晴らしい手際で早速前菜を運んできたウエイターもといコックの料理に舌鼓を打ち、副菜の多様さに興奮しながら、イルーゾォはいくらもしないうちに、次々運ばれてくる料理をすっかり綺麗に平らげてしまったのでした。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ