作品

□神についての考察
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私を――



最後の参拝客が扉を閉めた後、口火を切ったのは神父のほうだった。

「殺すのでしたら、どうか外でお願いします」

私の血でこの場所を汚したくはないのです。
小さく呟いて、顔を持ち上げる。彼の視線を追った先にあるのは、一人の女性の像だった。聖母マリアといっただろうか。プロシュートは教会についてあまり知識がなかった。

「安心しろよ。俺の殺しに血は流れねえ。ただ――」

コツ、と響く靴音が神父の後ろで止まった。

「それより先に聞いておきたい。どうしてわかった?俺は参拝客に完璧に混ざっていたつもりだったんだが」
「いいえ。あなたのような目でこの像を見る参拝客はおられませんよ」
「……どんな目をしていた?」
「『俺は神様なんてこれっぽっちも信じていない』……そんな目でしょうか」
「あー……なるほどな。そりゃあ失敗した。一夜漬けで覚えたミサの作法ばかりに気がいっててよ。次からは外面だけじゃあなく中身も取り繕ったほうがいいな。まあ、もう教会なんぞに来る機会はねえだろうが」

なんせ俺は不信心者だ。プロシュートの言葉を受けてなお、あごを上げて石像を見るうしろ姿は凛然としていた。立ち姿と同じく凛とした声は、なぜ、と言葉を形どった。なぜ、参拝客のふりを?と。

「見ておきたかったんだ。神父ってやつを。なんせ職業が神父ってだけで、俺の仲間は仕事を嫌がった。普段は政治家も警察も関係なく殺して回る連中が、口を揃えて神父さまは殺せない、だと。手のあいてる奴に限ってそんな事を言うもんだから、結局は俺が駆り出されることになった」

だからあいつらの特別視する『神父』ってやつが、一体どれほど立派な人間なのかと、好奇心を刺激されたんだが。
ふっと笑って、プロシュートは言った。「だが、なんてことはない。あんたは普通の男だった」

「どうしてあいつらが敬遠したのかわからない。俺たちがさんざん踏みにじって捨ててきたモラルってやつを、どうして今更引っ張り出してきたのかがわからねえ。聖職者なんて所詮はただの人間だ。殺したところで天罰のひとつもくだるもんか」
「私を殺せば天罰がくだる、と仰られたのですか。あなたの仲間たちは」
「ああ」
「それはおかしい。神は仰られた。人は誰しも平等であると」

私を殺すも、無垢な子供を殺めるも、咎人を殺めるも、罪の重さはどれも同じはずでしょうに。神父は少しばかり頭を下げて、小さく息を吐き出した。

「だから、そう、そろそろ……くだされる頃かと思ったのです。私への天罰が」

後ろからは、神父の表情は見えなかった。ただ、広い背中がわずかに丸まったのを感じた。それがどういった感情の表れなのか、知る必要はない。はずだった。

気付くとプロシュートは、傍らの長椅子に腰をもたれさせていた。

「ほんの四日前――」

神父はゆっくりと目を伏せた。気配でそれがわかった。思い返しているのだと思った。プロシュートが紙面の上でしか知らない出来事を。

「男性がひとり教会の裏で亡くなられていたでしょう。事故死、と。新聞には出ていたはずです」
「ああ、見たぜ。麻薬中毒者の悲惨な末路、って見出しのやつだろ。薬中にはよくあることだ。幻覚でも見たのか?錯乱して銃をぶっ放して、テメェの跳弾で額に穴が開いたんだってな。まったく運が悪いよな、意図的に建物に向かって発砲したって、たいていの場合は跳弾なんかしねえで壁にめり込むか、潰れてそのまま地面に落ちるってのに」
「詳しいですね」
「そりゃあ、本職だからな」
「そうですか。私は跳弾という言葉をそのとき初めて知りました」

それは本当の事なのだろう。彼が嘘をつくような人間ではないと、プロシュートは彼の目を見たときに理解していた。実際、彼は嘘をつかなかった。暗殺者である自分が彼の背後に立ったときも、少しも動じることがなかった。天罰を受けるといった。罪を認めているのだ。だから話を聞く気になった。それが終わったときに殺されるとわかっていても、彼は決して逃げないだろう。

「その男性を初めて知ったのは、ひと月前でした。彼は懺悔に来られたのです。人を殺してしまったと。懺悔室に入り、ついたての向こうで、深くうなだれる彼は確かに心から反省しているようでした。私は自首を勧めました。しかし、彼は首を横に振るばかりでした。怖いのだと言いました。懲罰はもちろんですが、人を殺めた事が父親に露見するのが恐ろしいのだと言いました」
「あんたは通報しなかったのか?」

ふっと笑う気配があった。自嘲のようなその笑いの後、首を振って神父は言った。「懺悔室で聞いたことは、それがどんな事であっても他者に漏らしてはならないのです」

「本来ならば、私個人の意見も挟むべきではないのですが、……私はどうしても、彼に自首をして欲しかった。罪を償って欲しかった」

彼の胸が大きく膨らんで、空気の抜ける音とともに平らになった。全身に回った酸素は、いくぶん彼の気持ちを落ち着けたのだろう。変わらぬ姿勢で、彼は続けた。

「罪を償いさえしてくださっていれば、私は彼を許すことができました。……許す、というのもおこがましい話ですが、それ以外に適切な言葉が見つからないのです。正直に言いましょう。私は彼を憎んでおりました」

言葉に棘が混ざらないのが不思議だった。彼の言葉はおっとりとしていて、それでいてプロシュートが好感を持つほどにはまっすぐとした芯が通っていた。

「彼の殺したという人間に、私は心当たりがありました。そう、ちょうど、彼の来る前日に、私はその死体を見た」

かすかに動いた唇は、誰かの名前を形どったようだった。だが、神父の口からは声になりきれなかった吐息のみがこぼれた。

「少年の……凄惨な遺体を目にしたときの気持ちはなんと申しましょう」

教会横のステンドグラスから伸びる光が、彼の黒衣に鮮やかな影を作った。マリア像の慈しむような視線の下、言葉を選ぶように慎重に口を動かす神父の姿はまさしく懺悔者のそれだった。

「ほんの少し前まで私に懐き、私の後を追うように歩き、穢れのひとつも無いような顔で笑いかけてくれた顔が、自らの血と肉片でぐちゃぐちゃにされていたときの絶望といったら――」

そこで一度言葉を区切り、軽く首を振った。頭に蘇った光景を掻き消そうとしているように見えた。

「正直に告白してしまいましょう。私はその瞬間、死を考えました。自らの命を絶とうと、そういった手段ばかりが瞬く間に頭を埋め尽くしました。しかし、神はそれを許されていない。初めて……そう、初めて私は、神の教えを恨みました。なぜ、戒律という手段をもってして、私のような捨ててもいい命をこの世に繋ぎとめ、罪の無い少年の命ばかりを刈り取っていってしまわれるのか。神はなぜ……」

そこで初めて神父は後ろを振り返った。足先がプロシュートに向いて、この日初めて二人は真に向き直った。

「私は神を憎みました。神を憎み、運命を憎み、そして犯人を憎んだ。なぜでしょう?今だから言ってしまいますが、私はあの懺悔室で、数多の懺悔をお聞きしてまいりました。その中には、此度のように人を傷つけ、また、殺めてしまったという方もおられた。しかし、同じく自首を勧める中で、その時ほどの怒りを感じたことは一度もなかった。なぜでしょう。私の知らぬ誰かの命も、少年の命も、等しく考えるべきだというのに。前者を奪った者には生きて悔い改めよと心から祈り、後者を奪った者には死をもって償うべきだと考えてしまった。……私は神を、隣人を、そして全ての人たちを平等に愛していたはずが、そのたった一人の少年を、想う気持ちが何よりも強かった」
「愛していたのか」

それに神父は答えなかった。ただ、自嘲をその口に浮かべただけだった。

「もし……そうですね、もし、神の教えが同性愛を禁ずるものではなかったとしても、私は少年に気持ちを伝えようとは思わなかったでしょう。私は彼のよき父であり、よき兄でありたかった。でなければ、両親に虐待され、捨てられ、満足に文字の読み書きもできないようなか弱い少年を、引き取ろうとは思わなかった。あなたの仰るような気持ちを抱えてはいたものの、私は、彼をただ、普通の人間として幸せにしてあげたかっただけだった」

しかし、神はそれをお許しになられなかった。

「いくら抑えつけようと、神は私の中に存在する気持ちこそを罪だとお考えになり、教えに背いた私に罰を与えたのです」
「あんたへの罰で、あんたの命じゃあなく子供の命を奪ったってのか?」
「私の命になど、何の重みがありましょう」

きっぱりと言って、神父は目を伏せた。

「私の命を奪ったところで、何の罰になりましょう。私にとっては、私自身の命より、あの子の命のほうがずっと大切だった」

体の横に垂らした両の拳がグッと締まったようだった。

「男性が私に罪を告白したのは、本当に偶然だったでしょう。いえ、もしかすると、これこそが神のお導きだったのかもしれません。……彼が、麻薬の副作用で見た幻覚に負け、少年を殴打したといった場所は、私の家から数分も歩かない場所でした。彼が凶器として使用した石の形すら、私は鮮明に思い出すことができた。その石を、その場所へ、運んだのは私と少年でした。玄関先で死んでいた小さな野鳥の墓を、作ろうといったのは、そういう、優しさを持っていたのは――」

――あのこだったのに。

神父の指先は白くなり、短く切りそろえられた爪は手のひらに食い込んだ。彼の両腕を震わせるのは、かなりの力だったろう。それでも黒衣に包まれた背中はまっすぐに伸び、声は変わらず凛と響き、まるで先ほどミサを執り行ったときと何も変わらないような立ち姿だった。

「あの日、あの子はあの場所へ、花を手向けに行ったのでしょう。暗い時間には外に出るなとの私の言いつけを、破ったのはその日が初めてでした。前の日に共に小鳥の魂の安息を祈ったその場所で、あの子は後ろから首を絞められ、振り払おうとした腕を花ごと蹴り折られ、墓石で執拗に殴打された」

なぜ、と神父はいった。

「なぜ、その惨たらしい遺体を見たはずの警察が、ひと月もの間、犯人の検挙に乗り出さなかったのか。知ったときには戦慄すら走りました。彼の父が――そう、父の権力が、捜査を抑えつけていると知ったときには」

プロシュートは、その父親を知っていた。神父を殺せと組織に依頼したのは父親だったからだ。彼は息子に愛情があったわけではない。むしろ問題ばかりを起こす息子のことを煙たがっていたようだ。しかし、その尻拭いをしないことには自分にまで余計な風評がたつと、金を使って麻薬や窃盗などの犯罪を隠蔽してきたらしい。今回の依頼も、麻薬による自業自得の死亡を、どうにか他殺に置き換えられないかとの内容だった。息子を殺す動機のあった者を自殺に見せかけて殺し、偽造した遺書を置けば事件の真相はうやむやになると、そう思ったのだ。そして、彼は息子が起こした過去の事件から、息子を恨むに値する人間を導き出した。彼は知らないだろう。自分が罪を被せて殺害しようとしている男が、まさに息子を殺した張本人だったなどと。

「彼は、あの子を殺めてしまったことを本当に気に病んでいるようでした。自分が恐ろしいと言いました。麻薬をやれど、盗みを働こうと、人を殺すにはある一線を越えなければならない。それを乗り越えた瞬間、人は、怪物になるのです」

その感覚は、プロシュートもよく知るものだった。十余年も前、暴走したスタンドによって両親を含む数人の人間の命を奪ったと知った瞬間、彼はひどく怯えた。まるで自分が異形のものであるかのような感覚があった。目には見えない境界線を、越えてしまったと思った。激しい後悔と自責の念。それはチームの誰もが感じた事のある心理だろう。誰しもがそれを乗り越え、暗殺者として今ここに生きているのだ。

「彼は、ひどく小心者でした。怪物のままではいられなかったのです。なんとかして自分の心を救いたかった。二度目の懺悔のとき、彼は麻薬をやめたと言いました。三度目のときには、私に二の腕を包帯でぐるぐる巻きにしてくれと言いました。薬を打ちたくなっても、注射針を通さないように、と。私はそのとき初めて彼の顔を見ました。精気がなく、落ち窪んだ目をせわしなく左右に揺らせて、土気色の肌は弾力をなくしていました。その不自然なほどにやせ衰えた首を、締め上げれば簡単に命を落としてしまうのだということは常に頭のすみにありました。けれどその時の私には、殺人という名の境界線を越える勇気がありませんでした。……殺人を勇気と言ってしまえば、私は彼を肯定したことになりますでしょうか」

そうだな、とプロシュートは答えた。

「殺人にあるのは勇気なんかじゃあねえ。欲望だ。少なくとも、俺は勇気で仕事をしているわけじゃあねえ」
「仰るとおりです」

二度三度と頷いて、神父は再び口を開いた。

「私は欲望を必死で抑えつけ、日が経つうちに冷静になる時間も増えてまいりました。もちろんあの子への愛情も、彼を憎む気持ちも変わりませんでした。しかし、神は仰られた。汝の敵を愛せよ、と。十字架に張り付けられながらも、自らをその十字架に張り付けている者たちのために許しを乞うた聖イエスのように、悔い改めようとしている者のために祈り、見守るのが私の使命だと思いました。事実、ひと月もの間、彼は教会へと足を運び、私と毎日のように神に祈った」

しかし、と、彼は言った。

「しかし、そんなものが何になりましょう。彼が懺悔を重ねたところで、彼の罪の意識が軽くなるだけではないですか。私は気付いていました。日に日に彼の顔に精気が戻り、おどおどと小心者然としていた態度は徐々になくなり、そう、やがては自分が怪物だという自覚も薄れ、自分が殺したあの子の事すらをも忘れてしまうのだと」

事実、彼は日に日に元気を取り戻していきました、と言い切って、神父は中指で眉間をトントンと叩いた。彼が無理やりに止めた涙は、目の奥に流れて、飲み込まれ、そのまま誰の目にも触れることなくいつまでも彼の中をぐるぐると巡り続けるのだろう。それは行きようのない彼の無念と重なった。
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