作品

□可能性
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厚手のデミタスカップから漂う香りはよく慣れ親しんだものだ。舌に転がせば口一杯に広がるだろう独特の苦味や酸味までありありと想像できる。ただそれも、昨日今日舐めた苦汁よりはよっぽど甘美だろう。

カラカラに渇いた喉とは裏腹に、握った手の中には見過ごすにはあまりに不快な湿気があった。手のひらに浮かぶ汗は緊張や恐れの現れだというが、だとしたら自分は一生この男の前に乾いたそれをかざす事は叶わないだろう。それどころか先ほどから拳をテーブルの下から出すことさえできないでいる。ペッシはまたズボンの上から膝を擦った。

わずかに視線を上げて伺えば、男は長い指を取っ手に軽く添え、黒い液体を当たり前のように喉の奥に流していた。その手の動きには、一切の震えも畏れもない。それが表しているのは男自身の威風だった。自分にはできない。自分は、男のようには決してなれない。

「……リーダーは」
「来ねえ」

カチャ、とカップがソーサーに触れ、痛いほどにまっすぐな視線がペッシを貫いた。

「来るはずねえだろ。テメーごときに構ってられるほどあいつも暇じゃあねえ」

もちろんそれは俺も同じだが。
何の遠慮も挟まない言葉はただの脅威だった。ますます縮こまるしかできない自分と、苛立ちを隠しもしないで尊大な態度を保ち続ける男。
次に口を開いたのが己であるはずがなかった。

「年端もいかねぇガキだって、己の役割くらいは理解できる。テメーはガキ以下か。言われたこともしねえ。できねえできねえで与えられた任務からもただ逃げ回る。あげく敵にシッポを掴まれかけて、危うく俺らのチームは壊滅だ。テメーは俺らに尻拭いをさせるためにここに来たんじゃあねえだろう。まさか、どうしてテメーが組織に"生かされている"のか、いちいち教えてやらなきゃあわからねえってのか?」
「でっ……」

でも、と続くはずだった言葉は瞬時に飲み込まれた。ギラギラと光る青い双眼はそれほどの威圧感を持っていた。これが、これこそが"殺し屋"の目だ。人の命を奪うことを生業とする男の。
もう一度、今度はツバを飲み込んで、ペッシは己を奮い立たせた。

「……でも、やっぱりできねえ……すよ。おれには、こ、……殺しだなんて」
「"できねえ"と」

……が、男の前ではそれも数秒ともたなかった。

「言いてぇんなら今ここでテメーの心臓をえぐり出してからにしろ。そうすりゃカタは俺がつけてやる。道理は通したことになる。テメーは無罪だ。せいぜいあの世で先に死んだ仲間と威張りくさってな」

まるでこめかみに銃口を突きつけられたような心地だった。低い声は弾丸のように鼓膜に突き刺さり、そのまま脳をも貫くのではないかと思われた。少し時間を置いてから荒くなった呼吸を必死に飲み下して、ペッシはもう一度言った。おれにはできねえ。

次の瞬間、喉元は不自然にへこんでいた。男は少しも動いてはいない。変わらずエスプレッソを口に運んでいる。しかし。

「あ……が、は……ッ!」

彼の"スタンド"は今まさにペッシを捻り殺そうとしていた。人間にはあらざる力で動脈を潰し、気道を塞いだ。機械的な三本の指がギリギリと肉に食い込み、頭に鉛でも詰め込まれたかのような苦しさが襲う。ちくしょう。意識が薄れる。ちくしょう。目が霞む。このまま意識を失ったら確実に死ぬ。殺される。この"殺し屋"に。ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょう!

「…………っが!がはっ!……は、はぁ、はぁ、はぁ……っはあ!」

急に入ってきた酸素で噎せかえり、呼気の変化で激しい頭痛が起こった。指の先から飛び出させた"釣り針"は未だ男のスタンドを貫いている。男はスタンドと同じ箇所、手の甲から噴き出す血液を無感動に流し見てから鼻で笑った。

「……殺すのも嫌だ。死ぬのも嫌だ。んなマンモーニ(ママっ子)みてーな考えがこの世界で通用するとでも思ってんのか?それともまだ表の世界で生きてる気にでもなってんのかよ。テメーは"落伍者"だぜ。とっくに落ちぶれちまってんだ。俺たちと同じ。死ぬか。殺すかしか道はねえ」

そう言って、男はエスプレッソを浅くすすった。

男の言ったとおり、彼も自分と同じ落伍者だとしたら、ずいぶんと堂々としたものだ。心に一本の"軸"が通っている。軸の存在が、この掃き溜めのような世界の中でさえも男を揺るぎない姿に押し上げている。

……そんなもの、恐らく自分には存在しないだろう。非を是として捉える力も。それを貫く度量も。

「お、れは、……同じじゃあねえ」
「あ?」
「アンタらなんかと、同じにはな、なれねえ。殺しなんかしちまったら、そ、それこそ本当の、落伍者じゃあねえか……!」

ガシャ、と音を立てた陶器はペッシの肩を大げさに跳ねさせた。本来ならばそこまで大きな音には聞こえないものでも、緊迫した空気は音の振動を何倍にも跳ね上げてしまう。心臓が押し潰されるような圧迫感は間違いなく男から発せられていた。

「今更なに常識気取ってんだ?テメーは善と悪とをきっちり分けて考えられるような上等な人間だったか?チンピラ気取った仲間とツルんで手当たり次第に人間ブン殴って、調子こいてギャングのシマぁ荒らした結果がこれだろ。テメーの仲間は臓器から何から売っ払われてとっくに魚のエサだ。テメーも。その"能力"さえなけりゃあ同じ目に遭っていた。ほんの偶然で命拾いしただけで、それ以外はとっくに終わってんだ。おしまいなんだよテメーの人生は」

ズ、とまた液体をすする音。反面、ペッシのコーヒーは始めから変わらず沈黙していた。飲もうとしたところで無理だろう。さきから体の震えが止まらない。カップのフチにかかるほど波々と注がれた液体がいっそ憎らしかった。

「とっくに何もかもを失っているテメーがケジメをつけるんなら、そりゃあ喜んで命を差し出すか、魂を差し出すかしかねえだろ。テメーを殺すか、組織の顔色伺いながら飼い殺されて過ごすか。何も難しい話じゃあねえ。選べ。今ここで」

こん、と長い指がテーブルを突いた。今。選ばないと、どっちみち殺される。組織に。男に。

心臓に流れる血液がドクドクと不快なリズムを刻む。ペッシは"選択"というものが苦手だった。何が最善か、先の先まで伺う事ができない。"わからない"ものは"選べない"。どんな結果になるにせよ、選択には必ず後悔が付き纏うからだ。だから今まで流されるままに生きてきた。言われるがまま、幼い頃から持つ"不思議な能力"でスリもやったし恐喝もやった。捕まることがあっても平気だった。"己"で"選択"した道ではないからだ。自分が悪いのではないと思えば何を言われても平気だった。

だが、男は今、"選択"を迫っている。他でもないペッシ自身に。それも"命"と"魂"、人間の中で最も尊い二つを天秤にかけて。

選べない、と思った。だがそれはそのまま"死"を選ぶことに繋がる。死ぬのは嫌だ。それくらいならペッシにもわかった。ただ"自分の意志で"人を殺める道を選ぶこと。これもまた、できないと思った。彼には自分が小心者だという自覚があった。きっといずれ、己が選んだ罪の重さに耐えきれずに潰れてしまう。

ぐらぐらと揺れる視界は錯覚だ。恐怖で無意識に目が泳いで、まるで船の上にでもいるかのような安定の悪さを感じる。胃の潰れそうな威圧の中、それは地獄の苦しみだった。胃の中が荒れ狂い、今にも逆流してしまいそうだ。カラカラの口内から無理やり唾液を集めて飲み込む。ようやくテーブルから上にあげられた両手は、そのまま強く口元を押さえた。

込み上げる吐き気をなんとか耐えて、涙の滲んだ目を正面に向ける。相変わらず表情の崩れない男は、まっすぐにペッシを見据えている。手から流れ出る血はもう止まったようだった。それでも、一度も拭われることすらなかった血の名残は、流れ落ちた姿のまま、手とテーブルを繋げる架け橋のように赤い線となって残っている。

この血は間違いなく、己が己の意志で流させたものだ。殺されかけた。だから反撃した。ただそれだけなのに、その傷跡を見ているとどうしようもなく落ち着かなかった。

ペッシは己が完全なる善人ではない事を知っていた。過去の仲間と共に、同じように他人に血を流させたこともあった。もちろん今回のような罪悪感はまるでなかった。だからこそ己の卑怯さが際立って見えた。罪悪感を他人になすりつけて平気な顔をしていた過去の自分がどうしようもなく汚く思えた。

ごく、と乾いた喉を鳴らす。ぜえぜえと息を吐いて肺に酸素を取り込み、ようやく治まった吐き気を自覚する。
口元を押さえていた手を再びテーブルの下に降ろし、じっとりと湿った手のひらをズボンで拭う。

今の境遇は、間違いなく自分で招いた事態だ。思考を放棄して、楽に生きようとした結果だ。ならば。

首の角度を少し下げる。わずかに眉を寄せて、先ほどからテーブルに置かれている、男の血に塗れた右手を見る。見るからに高そうなスーツの中にまで流れ込んでしまいそうな血の跡を辿るように。そして、ほんの少しだけ視線を持ち上げて、目の前の男を伺う。男はペッシの視線を追って己の袖口に目を落としていた。

…………今しかない。ペッシは小さく息を吸った。そして。

「ッ!ビーチ!」
「なあ」

ボーイ、と言うより先に、男は言葉だけをペッシに向けた。

男の傷付いた手は先ほどから動いていない。もう片手はカップを大きく傾けて最後の液体を喉に流し込んでいた。スタンドを出している気配もない。しかしペッシは己の右手に走る激痛を感じていた。額に流れる汗とほとんど同じ速度でゆっくりと視線を下げる。

テーブルの下。己の座る長椅子の角に縫い付けるように手首を踏みにじっていたのは、これまた高そうな革靴に包まれた男の足だった。己の指先からは目標を誤った釣り糸があさっての方向に伸びている。

「…………テメェ。いま殺そうとしたのか。この俺を」

ぎり、と更に右手が軋んだ。革靴のかかとは依然強い力をもってペッシの手を踏みつけている。

気付かれていた。

ペッシは今度こそ吐き気を抑えきれなかった。胃液が逆流して、口内に苦い液体が満ちる。がは、とテーブルの上に黄色がかった液体が落ちる。昨日の任務から逃げ出したときから何も口にできていなかったのが幸いだった。わずかな胃液が出た後は、激しい苦しみが残るだけだった。

「汚えな」男は一つ舌打ちをして足を下ろした。それでも右手は動かない。動かすことができなかった。右手どころか、足も、体も、まぶたの一つも自分の意思では動かない。次々と溢れる汗ばかりが勝手に流れ落ちるだけだった。そしてペッシは『死』というものを初めて身近に感じた。仲間の死体は海に沈められたのだという。ならば己はどれほど酷い死に様を晒すことになるのだろうか。ペッシの絶望を知ってか知らずか、男はやおら立ち上がった。

「オイ。いつまで座ってるつもりだ。表出ろ」

ひぐ、と喉が鳴る。殺される。逃げなければ。だが決して逃げられはしないだろう。ほとんど確信にも似た思いがよぎる。それを肯定するように、男の手はペッシの胸倉を掴んだ。

「……聞こえねえのか。表出ろっつってんだ。さっさとしろよ、日が暮れんぞ」

言うやいなや細身の体には吊り合わない力がペッシの体を無理やり立たせる。ドン、と背中を突き飛ばされ、よろける体を辛うじて支え直すとまた次の衝撃。ほとんど強制的に歩かされる形でペッシは店外へと弾き出された。

「う、……あぁ……」

声らしい声も出せずに呻く。真後ろに男の気配を感じた。振り向くほどの勇気も、ましてや逃げるだけの気力もない。自分はこれからどのように殺されるのか。ただそれだけが頭を埋め尽くした。

ふいに、首の後ろに重みがかかる。肩に腕を乗せられているようだった。真横からじろじろとした視線を感じる。

「な、なに――ッ!?」

どん、と軽い衝撃があった。腹に。

その衝撃は間髪入れず、胸、肩、腰、そして背中へと続いた。

「っげほ、な、っ、なん……!」

予測のできない動きに思わず噎せ返ると、男は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「ビビッてんのか?なんだよこのくらいで。だらしねえなァ、ええ?」

そして、今日初めて片頬を持ち上げてみせた。

――笑っている。
その理由を伺うより先に、男はもう一度ペッシの背中を叩いた。

「いいか。今後俺の隣を歩くときは今叩いたところに力入れんのを忘れんな。そうすりゃ今のテメーみてえなだらしねぇ歩き方にはならねえ」
「こ、今後って……」
「テメーの面倒はたった今、俺が見ることに決めたってことだ。雑用は率先してしろ。主な仕事は俺のサポートだ」
「おっ、おれは殺しは……!」
「しなくていい。少なくとも今すぐには。お前が『そうしなきゃあならない』と思ったときに『やれ』」
「………………お、」

おれを殺さないの。
そう声を絞り出すと、男は振り返りもせずに言った。

「その必要はないと判断した。『お前』は『俺』を殺そうとしたからな。……死にたくなきゃあ、黙って俺について来い」

そして、また馬鹿にしたように笑った。
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