作品

□たとえばこんな未来が
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見慣れた天井。窓に目をやると、薄明るい空を三羽の小鳥が横切ったところだった。まだ眠気の残る目元を手の甲で擦り、ふああと一つ大あくびをする。そのまま伸びをしてみれば、シーツからはみ出た部分の肌が痛いほどの冷気に襲われた。なんといっても冬の朝だ。無防備な皮膚には、ツラい。

思わずふるりと震える体を撫でさすり、緩慢な動きでベッド下に脱ぎ散らかされた服を引き寄せ、もぞもぞと袖を通す。同じく床に作られた山を探ると、俺のものより一回りサイズの小さいパーカーに行き当たった。埃を払うよう軽くパッパと叩いてやり、畳んで枕元に置く。
瞬間、腰元でシーツにくるまっていた存在がもぞもぞと寝返りを打った。うつ伏せた状態からごろんと転がって顔だけがこちらを向き、やがてゆっくりと瞼が持ち上がり、薄ぼんやりとした視線が俺を捉える。

「イルーゾォ?」

囁く程度の声量で名前を呼ぶと、しぱしぱと目をしばたたかせたイルーゾォは、ふぁ、と溢れるあくびをかみ殺して、ゆるゆると半身を起こした。そのまま俺の肩に顎を乗せ、べったりと背中にもたれかかる。「……おはよ」とだけ言って、ぐりぐりと顔を押し付けてきた。
こいつの甘える仕草はひどく可愛らしい。肩越しに頭を撫でてやり、抱きつくように腹に回された手をぽんぽんと叩く。そうしてから俺は、改めて彼に向き直るのだ。先ほどの俺と同じく剥き出しの肩を抱き寄せ、昨晩の行為の最中何度だって言い合った愛の言葉を囁いて、頬にキスを落としてから畳んだばかりのパーカーを広げて頭から被せてやった。寝ぼけ眼でもごもご蠢くイモムシ状のイルーゾォはまた可愛い。まるで子供の着替えを見守る親のような心境だ。乱れた黒髪を手で梳いてやっていると、体の側面が何度かぽこぽこ膨らんで、ようやっと見つけたんだろう袖口からにゅうっと白い指先が覗いた。

「Buon Compleanno. イルーゾォ。お前に出逢えた事が俺にとって一番の幸せだよ。生まれてきてくれてありがとう」

そう言って、指先にした口付けは、ようやくイルーゾォの意識を覚醒させたらしい。頬をじわじわと染め、視線を左右に揺らした後で照れたように笑う。「寝る前も言ってくれたじゃあないか、それ……」
「何度だって言うよ。だってマジにそう思ってるんだ」

こちらもカラカラと笑ってやって、今度は額にキスをした。くすぐったそうに、はにかみながら、イルーゾォは幸せそうに笑う。少しだけキツい印象のある猫目がゆるりと頬に押し上げられるとどうしてだろう、平時よりずっと柔らかい空気を醸し出してみせるのだ。その表情が昨日よりどこか大人びて見えるのは、今日こそがイルーゾォにとって特別な日だからだろう。

「どうだ?成人した気分は。っていっても、ハタチになったからっていきなり何かが変わるわけでもねえがよ」
「まあ、そうだな。ガキの頃思ってたよりはずっと普通だ。不思議なもんだな。昔はオトナってのは無条件でエライもんだと思ってたけど」
「案外変わらねえもんだよなあ。俺なんかはもうかれこれ三年も経っちまったが、未だに変わんねーなあ、ココロもカラダも」
「三年じゃあない。まだ二年と十ヶ月だろ、ホルマジオがハタチ過ぎてから」
「ええ?」
「間違えてもらっちゃあ困る。今から二ヶ月の間は俺にとって一番大切な期間なんだから」

何の話?
体をひねってイルーゾォごとベッドに沈む。俺に押し倒される形で仰向けに転がった彼の耳に囁くと、少し逡巡した後、言いにくそうに「歳の差の話」と呟いた。

「いつもは三つ違いだろ。年齢が。それが今日からあと二ヶ月、あんたの誕生日が来るまでは二つ違いになれるんだ。それって凄いことだよ、俺にとっては」
「そうかあ?」
「そうだよ。会ったときからあんたにはガキ扱いされてたからな。たった三つの歳の差のせいで。それが悔しくてさあ。……まあ、でも、三つ違いが二つ違いになったところでそれ以上は一生縮まらないわけだけどさ」
「そうでもねえよ。俺が先に死んじまったら必然的に縮まるしよ」
「……ッ!」

そういう事をッ!
何気なく言ったつもりだったが、イルーゾォは突如声を荒らげた。驚く俺の顔を見て我に返ったのか、それからは声量を落としてぽつぽつと囁くように言う。「じ、……冗談でも言うなよ……」

死ぬ、とか、洒落にならない。

最後にそう言って、イルーゾォは俺の下から抜け出る。それから気まずそうに向こうを向いてしまった。――ああ、マズい事を言った。俺って奴はこういう日に限ってやらかしちまうんだよなあ。

俺の手は、反射的に彼の肩を掴もうと伸ばされていた。だが、それをふと止める。わからなくなったんだ。今、彼を振り返らせて俺は何を言えばいい?
俺は死なねえよ、とでも言うのか? ずっと生きて、一生お前を愛し続けるよ、とでも言うべきか? いったい何の確証があって。俺たちは暗殺者だ。今日がどれだけ元気であろうが、明日も変わらずこの世にいる保証なんざありゃあしねえ。それに加えて俺たちは男同士だ。子供のできる可能性のある、そうでなくても世間から真っ当に祝福されるべき男女間の恋愛とは違う。いつか、限界がくるかもしれない。普通の恋愛を渇望する時期が来るのかもしれない。だから『一生』だなんて。そんな単純な言葉でイルーゾォの未来を縛るべきではないんじゃあないか。

ぐるぐると回る思考は、伸ばした手を下げさせるには充分だった。その手で誤魔化すように頭の後ろを掻く。むこう向きに寝転がったイルーゾォは、小さな寝息を立てていた。寝たフリだろうか。わかっている。いま俺たちは、これ以上話すべきではない。

俺は、彼とは逆向きに寝転がった。きっと、今はそっとしておいた方がいい。一度寝て、起きたら。互いに今のことなど忘れたように振舞おう。

気持ちはもやもやとしている。とても眠れる心境ではないのだが、無理やり目を閉じた。シーツを頭まで被る。背中に当たる暖かい体温を感じながら、何も考えないよう頭を真っ白にした。
そうしていれば現金な俺の脳だ。やがて意識はふわふわと揺れだした。ゆりかごに揺られているような、眠りにつく直前のゆったりとした時間。体から力を抜けば、白い光に包まれるようにして、俺の意識は手放された。





――『時計』を見ようとしたんだと思う。いつもはベッドから見て右側の壁に掛かる時計を。

「……なんだ?」

ぱちぱちと瞬いた俺は、右向きに横たえた体をごろんと仰向けた。見えるべき景色と違うものが目に飛び込むと、どういうわけだか思考はその場で停止する。今見た光景をどう整理すればいいかわからなくなるのだろう。
見慣れぬ天井。真新しいフローリング。壁にかかったハンガーにはきちんと整えられた服とズボンが吊られていて、その下にはまだ下ろしていないんだろう傷一つ無い革靴が飾ってある。それが二組。ガラス張りのテーブルの上には、聞いたこともない雑誌が数冊乗っていた。
オフホワイトの壁紙には、よく見れば品のいい石目調の模様が浮き出ている。その隅のほうに、ナチュラルウッドの扉がひとつ。
俺が心の内の動揺を表に出さなかったのは、ひとえに俺の隣でシーツにくるまる、よく知った気配のおかげだろう。

「……イル、イルーゾォ」

見慣れぬ部屋を警戒しつつ、小声で呼びかける。彼の眠りはそう深いほうではない。案の定、囁くような声量にも敏感に反応したイルーゾォは、うっすらと目を開けて俺の姿を捉えた。

――あれ。

妙な違和感があった。
少しクセのある長い髪。端整な顔。彫りの深い目元と高い鼻。むくりと体を起こしたのは間違いなくイルーゾォだった。でも違う。何かが。

俺は、知らぬうちに『彼』と距離を取ろうとしていたのだろう。ベッドから下ろした片足が床につく。瞬間、それ以上動けなくなってしまった。
『彼』は、優雅な動作で乱れた前髪を掻き上げた。そのまま意識をはっきりさせるよう頭の後ろを数度掻き、小さくあくびを漏らしてから、俺を見据えて小さく微笑んでみせた。ただそれだけの動作で、俺は動けなかった。呆けていた。正確に言うなれば、見とれていたのだ。心臓が早鐘のように脈打つ。『彼』から伸びる手が頬に触れた瞬間、弾かれたように体が跳ねた。汗がどっと吹き出るのがわかる。俺は緊張していた。

「い、……イルー……ゾォ――?」
「なに、幽霊でも見ましたって顔して。俺が居ちゃあいけないって言いたいのか?」
「ち、違う違う、違う……け、ど、その、……イルーゾォだよなあ?」
「当たり前だろ。どうしたんだ? 朝っぱらから。まさか寝ぼけてるとか」

カラカラと笑ったイルーゾォ(本人がそうだと言っているからにはそうなんだろう)は、それでも納得のいかない顔を向ける俺を見て、からかうのをやめた。かわりに、まるで迷子の子供を相手にするときのような優しい笑顔で人差し指を立てる。「やっぱり寝ぼけてるんだな、ホルマジオ。ここがどこだかわからない。そんな顔だ」
そう言いながら、その指でトントンと床を指す。素直に頷く俺にまた一つ苦笑を向けて、心底愛しいものを見るように辺りを見回したイルーゾォは、次にとんでもない事を口にした。

「俺たちの新居。……っていって、今日あんたがくれた家じゃあないか」





イルーゾォ曰く、ここは俺たちの新居なんだそうだ。新築二階建て。場所はアジトから少し離れた街の中。驚いたことに、その家を本人への相談もなしに勝手に建ててプレゼントした大馬鹿野郎は俺なんだそうだ。いつの話だよ。問うと、だから今日だって。呆れたように返される。俺ってそんな金あったっけ? 自問するようにぼやけば、そういえばここ数年、昔みたいなハデな金遣いしてなかったよな。感心したような声がした。いったい何の記念だ? そう問うたときにはいよいよ気分を害してみせた。どこまでとぼければ気が済むんだよ。今日の事だぜ? 俺の誕生日に決まってるだろ。三十なんて、祝ってもらうような歳でもないけどさ。と。

「…………嘘だろ……」

とりあえず、顔、洗ってくる。
なんとか捻り出した声でそれだけ言い残して、俺はひとり部屋を出た。廊下に面するいくつかの扉を開閉した先でようやく見つけた真新しい洗面所に滑り込む。冷たい水を頭から浴び、ぽたぽたと垂れ落ちる雫を無視して顔を上げた。正面の鏡に映ったのは、間違いなく俺だ。だが、『俺』じゃあない。先ほどイルーゾォを見たときと同じ違和感がそこにはあった。

頬を撫でる。生えかけの無精髭の下にある肌の質感。指に触れる肉付きの薄さ。痩せこけたのでは決してない。眠りにつく前までは確かにあった、若者特有の『丸み』がなくなっていたのだ。無駄な肉の削げ落ちた体はがっちりとした筋肉に覆われ、よりシャープな印象を感じるようになった。

イルーゾォの言葉が正しければ、俺はいま三十二歳。

何が原因か、俺の『精神』は十年後の未来にタイムスリップしてしまっているらしい。



「ああよかった。洗面所、ちゃんとわかったんだ。ほら、タオル。……それにしてもまったく、まさか家を建てた本人が今日までただの一度もこの家に踏み入れたことがなかったなんてな。思い返せば昨日はさんざん飲んでからここに来たわけだし、慌てるのも納得できるっていうか……」

驚くべきことに、イルーゾォは手際よく俺の『全て』を用意してくれた。馬鹿みたいに顔から水滴を垂らして呆然とする俺にタオルと剃刀を手渡し、シェービングクリームを置いて髭を剃るよう提示して、自分は顔をさっと洗っただけで洗面所から出て行った。(無駄毛の薄いイルーゾォが髭を剃るのは三日にいっぺんだ)
部屋に戻ればすでに着替えを済ませていて、未だスウェットをだらりと着崩している俺にハンガーごと服を押し付けてきた。もぞもぞ袖を通している俺を尻目にさっさと部屋を出てしまったので、急いで残りを着替えて追うと、階段を下りた先で茶色い紙袋の中からバケットを一本取り出した。二切れ? 三切れ? パンナイフを取り出しながら聞くイルーゾォに慌てて三、と答え、温まっていくトースターと、冷蔵庫から新たに取り出したパウチ詰めのコーンスープが鍋に注がれ火に当てられるのを、俺はただただ呆然と眺めていたのだった。
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