作品

□7年前の俺達
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いつだってまっすぐに背筋を伸ばして凛と立っていたあの男からは、一度たりとも泣き言というものを聞いたことがなかった。
何があっても余裕そうに構え、どんな困難があっても、まるでそれを楽しむかのように、綺麗な顔を悪戯に歪めて笑っていた。
だから知らなかった。気付けなかった。この日、彼以外の口から真実を告げられるまでは。

白いドアにもたれてズルズルとしゃがみこんだ俺の向こう側を、リーダーは感情の読めない瞳でじっと見つめていた――



***************



クソックソッと呟きながら流水に両手を突っ込んで、いつまでだってざぶざぶと洗い続けている俺の姿は、もうアジトでは当たり前の光景になっていた。最初はやたらとまとわりついて茶化していたメローネも、洗面所の鏡が使えないんだけど、と遠回しに嫌味を言ってきていたイルーゾォも、最近はもう何を言っても無駄だと判断したのか、この状態の俺には触れるどころか目を合わせることすらも無くなっていた。

……だが、この男だけは違った。

「おっ、ギアッチョじゃねーか。なんだぁ? まーた手なんか洗ってやがんのかよ」
「っるせぇよプロシュート! 俺は今忙しいんだ、あっち行ってろ!」
「テメェ……なんだ? その口の利き方は。まぁだ年上への礼儀ってもんがわかってねぇみてぇだなぁ……? オラッ! お仕置きだぜッ! これでもくらいやがれっ!」
「う、わ……っ! 馬鹿野郎! 離、し、やがれぇえーーーっ!」

後ろから俺の首にガバリと腕を回したプロシュートは、そのままヘッドロックを決めて、開いた片手でむちゃくちゃに頭を掻き回してきた。元々クセの強い俺の髪は、それによって更にまとまりを無くしてグシャグシャに乱れる。力ずくで腕から抜け出しキッと睨むが、そんな頭では迫力など出るはずもなく、ギャハハハハと豪快に笑われてしまった。

「〜〜〜ッ! 笑ってんじゃねぇよクソッ!」
「ハン! 身の程知らずがナマ言ってんのが悪いんだろ? ほら、わかったら髪直してさっさとリビング来いよ。とっくにメシできてんぞ?」
「っ……!」

メシ。その言葉を聞いたとたんに抑えていた吐き気がこみ上げてくる。荒くなる息を無理やり飲み込み、未だにザァザァと流しっぱなしにしている洗面台に両手をついて、排水口に流れる水を目で追った。控えめに口を開く。

「……いらねぇ。食いたくねぇ」
「はぁ? なんでだよ。今日はお前の好きなロールキャベツだぞ?」
「ッいらねぇったらいらねぇんだよ! いいからあっち行っ……ぅぷっ!」

怒鳴ると更に吐き気は増した。慌てて口元を押さえ、洗面台に頭を突っ込む。そんな俺をハッとしたように見つめたプロシュートは、真剣な声で聞いてきた。

「ギアッチョ……お前まさか、妊娠……!?
「馬鹿かテメェは。
妊娠なわけねぇだろっ!だっ……、第一俺まだ童貞だし……
「そっかそっか。お前もたいがい大馬鹿だな。男が妊娠するわけねぇだろ。冗談だ冗談。
……っつーことはなんだ? 体調でも悪いってのか?」
「いや、それは違う……けど」

問われて、曖昧に否定する。同時に首の角度もゆっくりと下がり、視線は俺の両手に固定される。
それを見たプロシュートが視線を追って俺の手を眺めているのがわかるが、おそらく……いや、絶対に理由などわからないのだろう。
事実、再び顔を上げたプロシュートは、首をかしげて今度こそ真剣に「どうした」と問うてきたのだから。

「なあ、何か悩んでんなら言ってみろよ。助けてやれるかもしれねぇだろ?」
「……俺も、わかんねぇんだ。自分がどうしちまったのか」
 言って、両手を目の高さに掲げる。水に浸けっぱなしにしていたせいでふやけた指先が目に入ると、それだけで吐き気は増した。

具合が悪いわけではないのだ。腹が減っていないわけでもない。ただ、どうしようもなく気持ちが悪くて、食べ物を見ていたくなくて、そして。

……排水口に流れこむ水のように、俺の手から全てを流してしまいたくなるのだ。

「……なぁ、プロシュート。俺の手、まだ血の臭い、するか?」
「は? 血の臭い……?」

指先を見つめたままボソッと呟くと、疑問符を浮かべたプロシュートの声が返ってくる。腕を掴まれ、手の先から肩口までを一通り嗅がれる。その間も、俺の鼻からは血なま臭いにおいが離れなかった。

「いいや? 石鹸の匂いしかしねぇよ」
「つまんねぇ嘘つくなよ。……自分でわかる。くさいんだよ。朝殺してきた奴の血の臭いが、ずっと、ずっとしてる」
「嘘じゃねぇよ。本当に石鹸の匂いしかしねぇ。それにギアッチョ、お前の氷のスタンドは殺しのときに返り血なんか浴びること無いだろ?」
「浴びなくたってするんだからしょうがねぇだろっ!?」
「お前なぁ、その程度でくせーくせー言ってたらイルーゾォはどうなるよ。アイツ、主な武器がナイフだからって毎回バシバシ返り血浴びちまってるんだぜ?」
「俺は繊細なんだっ! コートの下血まみれで返ってきて『今日の夕飯トマトリゾットがいいなあ!』とか平気で言いやがる無神経野郎と一緒にすんなよ!」

ハァ、ハァ、と肩で息をする俺を余裕そうに見つめるコイツは、目を細めてやっぱり「においなんてしねぇ」と言い切った。

「っ! でもよぉ!」
「落ち着け、ギアッチョ。もし今も血の臭いがするってんなら、それはお前がそう思い込んでるだけだ。実際は血の臭いどころか他人のにおいだってしやしねぇ」
「お、思い込みなわけねぇだろ! だって、こんな……っ」
「思い込み、だ」
「っ、……」

もう一度ゆっくりと囁かれ、俺は言葉に詰まる。
いつだって自信満々のコイツの言葉は、人にそれを信じさせる何かを持っているのだ。

「なぁ、ギアッチョ。いったん落ち着いて、深呼吸してみな。残念ながら草原だとか森林だとかそんな上等な匂いはしねぇが、血のにおいなんかじゃねぇ、お前がいま暮らしてる汚ねぇアジトのにおいがすんだろ?」

言いながらその両手で俺の頬を包み、少し屈んでコツンと額を合わせる。その体勢のままゆっくりと耳に馴染ませるように紡がれるプロシュートの言葉は、強い説得力があるわけではなかった。しかし、なぜか俺には真実のように聞こえてしまう。事実、荒くなった呼吸は徐々に落ち着き、あんなに苦しかった吐き気も治まってきていた。

それを見越して、プロシュートは優しく問う。

「ギアッチョ。今日殺したのは何人だ?」
「……四人」
「ハンッ、なんだよそれっぽっち。俺は今日一日でその十倍は殺してるぜ?」
「う、嘘吐けよ! そんなに一気に殺したら足がつくに決まってんだろ!?」
「ッハハ、そこを上手くやるのが俺たち暗殺者なんだよ。特に俺の仕事はすげぇぞ? 俺の殺し方は慈悲深いからな。スタンドをくらったやつらが全員、綺麗なまんまで死んでくんだ」

両手を広げて大げさに喋るプロシュート。俺は「慈悲深い殺しってなんだよ」と思いながら、思わず眉根を寄せてしまう。そんな便利なスタンドが、本当にあるのだろうか。
半信半疑の俺の気持ちを察したのか、プロシュートは悪戯っぽく笑って俺の背中を叩いた。

「テメェ、さては俺の言うこと疑ってんな?」
「当たり前だろっ!? だってそんなすげぇスタンドあるわけねぇじゃん!」
「……あー。そういやお前にはまだ俺の能力見せたことなかったっけ」

そう言って、何やら考えるように口元に手をやる。しばらくして何を思いついたのかニンマリと笑うと、ポンと俺の肩を叩いた。

「お前、明日はオフなんだろ?」
「ん、あぁ……そうだけど」
「じゃ、明日の夕方六時。ここに来いよ」

ここ、と言いながら壁に掛けてあるイタリアの地図の中、交通手段もあまりないような辺境の地を指差す。

「いいか? 旅行客にも、現地の住人にも、誰にも見つからねえようにするんだぞ?」
「リーダーには……」
「黙って来い。休暇をどう使おうが自由なんだからよ。
……さ、わかったらいい加減メシ食おうぜ?」

テメェのせいでむちゃくちゃ腹減っちまったよ、俺。
言いながらプロシュートは、俺の背中を押して洗面所を出る。
そして、メシ、と聞いてとたんに腹が鳴った俺を茶化すように笑うと、すっかり冷めきったロールキャベツをレンジに突っ込んだ。

……そのときには既に、吐き気なんて吹き飛んでしまっていた。

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