作品

□それはとても幸福な
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ああいよいよダメだって時にはあんたを思い出すようにしてるんだ、俺は。
誰もいない通りの、何件目かの窓を通り過ぎたあたりでイルーゾォはそんなことを言ってみせた。よく晴れた空の下で珍しく機嫌よくフラフラと歩くイルーゾォが誰にもぶつからないのは、ひとえにこの場所が彼の作り出した鏡の世界だからだ。

「なんでダメな時なんだよ。もっといい気分のときに思い出してくれねぇ?」
「それは無理だよ。俺の気分がいいときにはたいてい側にあんたが居る」

だから"思い出す"ってのは無理。きっぱりと言い切って、再びフラフラと車道を歩く。酔っているのだ。彼は今の今まで血の海の中に居た。事切れたターゲットをべしゃりとゴミのように放り、ナイフを軽く拭って鏡から出てきた彼を見て、ぐしゃりともう一人の哀れな被害者を踏み潰したのは自分だ。聞きたいことは聞いた。鏡の中と外。同じ事を違う人間に同時に詰問するのにこれほど適した場所はない。口裏を合わせることもできずにただただ拷問に喘いだ二人の人間はほぼ同時に息絶えた。

「"血に酔う"って感覚、俺は好き」

思考を読んだかのように唐突にそんな事を言ったイルーゾォは、その辺に落ちていた布の破片を拾って爪の間に残った血の塊を拭って捨てた。

「世界が真っ赤に染まったような感覚。気分が高揚するんだ。闘牛のウシみたいな感じかな」
「闘牛は今のお前みたいにご機嫌ってわけじゃあねえと思うけどな」
「なるほど」

うんうんと軽く頷いたイルーゾォは、こっちと手招いて薄暗い路地裏にホルマジオを導いた。疲れたのだろう。鏡の世界を維持するのに使う精神力は相当なものだ。
あまり目立たない道の端に腰掛ける。
人の気配が無いことを確認してスタンドを解除したイルーゾォは、隣に座って古い家々が作り出す四角く切り取られた空を見上げた。

「ごめん。少し休んだら大丈夫だから」
「いいって。のんびり行こうぜ、任務は終わったんだ。あとは何事もなくマフィアのシマを抜けるだけ」

イルーゾォを見習ってぼうっと空を見上げる。海が近いからだろうか。それはアジトの周りに比べて澄んでいるように見えた。
そして不意に、先ほどの彼の言葉を思い出す。

「……で? 酔っ払ったイルーゾォ君はどういう時に俺を思い出すって?」

言葉を投げかけると、イルーゾォは少し首を傾げた後、思い出したように「あぁ」と言った。

「もうダメだーって時だよ。例えばそう……ギアッチョの眼鏡を壊しちまった時とか、ドアを開けたらプロシュートのおでこにぶつけちまった時とか。あ、最近じゃあ買いに行った本が売り切れてた時とかにも思い出したかな」
「そりゃまたしょうがねぇ時に思い出してくれるよなァ……」
「しょうがなくないよ。俺にとっては……『マン・イン・ザ・ミラー。俺とホルマジオを許可する』」

ズズ……と視界が歪む。反転した世界にやがて女の靴音が響いた。気配に敏感なのは素晴らしいことだ。危うく仕事を増やすところだった。
行こう。再び歩き出したイルーゾォの隣について、言葉の続きを待つ。薄暗い路地から青い空を見上げたイルーゾォは、ややあって口を開いた。

「大切なことなんだよ、俺にとっては。……なぁ、パブロフの犬って知ってる?」

ホルマジオはこくりと頷いた。条件反射の例としては最も有名な話だ。

「俺はそうなりたいんだ。ダメだって思った瞬間に反射的にあんたを思い出せるような。自分にそういう反射付けをしたい。最期の瞬間、あんたを思い出していたいんだ」

ぴたりと足を止める。二、三歩前に進んだイルーゾォは振り返って笑った。

「死ぬときにはあんたを思い出しながら死にたいんだ。見ろよ、そこの窓」

彼が示した指の先を見る。裏路地にひっそりと面する窓の中には、男が一人、ベッドに横たわっていた。いや、違う。ホルマジオは思った。生き物はイルーゾォが許可しない限りこの世界には入ってくることができない。つまり、あの男は……

「死んでるだろ。たった今、ここに来たんだ。老衰だろうな。少しベッドが軋んでいるのは現実世界で家族か誰かが泣きすがっているから。この世界に居ればたまに見る光景だよ」

鏡の世界は死の世界だ。彼が常々言っていたのはこういう意味だった。彼は死の世界の中にたった一人、踏み入ることを許された人間なのだ。

「綺麗な死に様だろ」

言って、わずかに目を伏せる。

「……俺たちはきっと、あんな風に死ねはしない。ぐちゃぐちゃにされて、バラバラにされて、魂までをも踏みにじられるような醜い死に方をするんだと思う。今までしてきた事への報いを受ける日がきっと来る。だけど」

イルーゾォは、この世界で数多の死を見てきた。自分が殺すこともあったし、その倍以上の死体も見てきたのだろう。その彼が、今。

「死ぬ間際、もうダメだって思った瞬間、頭に浮かぶのがあんたの顔だったら俺は、それが素晴らしい死に様だったと胸を張って言える」

幸せだと思える死に様を語った。そのためには間違いなく自分が必要なのだと言われた。ホルマジオは顔に手を当てて少し笑った。

「……そうだな。俺も、最期の瞬間にお前を思い浮かべられたとしたら幸せだ」

再び歩を進める。止まっていたイルーゾォの腕を追い越しざまに掴んで隣に並べる。促されるように歩き始めたイルーゾォは、掴まれた腕をするりと抜くとその手を取ってしっかりと握った。そして、手のひらから流れ込んでくるじんわりとした温かさに頬を緩めて、口を開く。

「来世とか、信じてないけど」
「ん?」
「……もし、本当に来世があるならさ、次はもっとちゃんと生きて」
「うん」
「…………あんたと、笑って死にたいな」

ホルマジオは力を込めてギュっと手を握り返した。





End.


2010/11/24

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