作品

□漫画家と海へ遊びに行こう
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六時間。少なくとも自分には短く感じられる時間だ。集中して仕事をしていれば簡単に過ぎ去る時間。しかし彼にとっては違ったのかもしれない。
岸辺露伴は、彼にしては珍しく人を気遣った。仕事机の後方で椅子に掛けるこれまた珍しい訪問者に声をかけたのだ。

「暇だったら勝手に帰っててもよかったんですがね、承太郎さん」

ただ、気遣う言葉を知らないのもまた岸辺露伴であった。
当の承太郎は微塵も気にした様子はなく、ただ一言「そうか」と言って右手でページを捲っただけだったが。



***************



心底申し訳なさそうな顔をして露伴の家を出る康一……を見るときの露伴の顔といったらなかった。
まるで大切な植木に巣くった害虫を見つけたときのような、あるいは長年憎んできた親の仇にでも会ったような、とにかく目で人を射殺せるのではというくらい凶悪な顔をしていたのだ。


――事の発端は昨日の夕方、露伴の発した一言にあった。

「今から海に行こう、康一くん」

その言葉を耳にした時、康一はまっさきに"話題を逸らすこと"から始めた。

「そういえば先生、昨日学校でですね…」
「行きたくないんだろう、キミ」

そして五秒とたたずに見抜かれた。

じっとりとした視線で自分を見返す天才漫画家に、康一はしばらく言葉を探してから結局は自分の心を素直に伝えることに決めた。

「…………。だって先生、いま何時だと思ってるんです? もう日も落ちますし、夜に海なんか入ったら危ないですよ。だいたいこんな寒い時期に海だなんて…」
「……康一くん。キミは、まさか、この岸辺露伴が、そこいらのスカタンと同じようにただ泳ぐためだけに海に行こうとしていると、そう思っているのかい?」
「え、違うんですか?」

露伴は、あからさますぎるほどにヤレヤレと首を振った。

「取材に決まっているだろう。それも夜でなくちゃあいけない。魚がどこでどうやって眠るか、図鑑なんかじゃなく実際に見たいんだ。
……まぁ、キミが親友の僕より明日の学校の準備だとか睡眠だとか下らないことに重きを置く薄情な人間だというのなら仕方ないんだがね」
「もう、すぐそういう言い方するんだから……。わかりましたよ、僕も行きます、付き合いますよ」
「!! そうかいそうかい康一くん! いやあさすがは僕の大親友だ!さあ行こう今すぐ行こう場所はだね…」
「で・も!」

嬉しそうにスケッチブックを持ち出した露伴に釘を刺すように声を張り上げた康一は、人差し指を立てて有無を言わせぬ口調で露伴に迫った。

「せめて明日にしてもらえませんか? 行ってあげたいのは山々なんですが生憎今日はこれから塾があって。あと明日なら承太郎さんも呼べるし」
「……なんでそこで承太郎さんが出てくるんだ?」
「あれ? 先生知らないんですか? 承太郎さん、海とか海の生き物とかにすごく詳しいんです。こないだなんか、冗談なのか本気なのかわからないけど、海岸に落ちてたヒトデを拾って『今度コレで論文でも書いてみるか』とか言ってて。
だから、僕一人より先生の取材の助けになるんじゃないかなーって」

……確かに。しばし逡巡した露伴は思った。承太郎とはあまり面識がないが、海洋生物に詳しい人物を一人連れて行ったほうが、魚を見つけていちいち図鑑を引っ張り出すよりはいいかもしれない。
先生さえよければ僕から連絡しておきますけど、と言った康一に、露伴は珍しく素直に頷いたのだった――



***************



露伴は、言葉もなく康一を睨む、睨む、睨む。
それでも康一にはそれがどこか売られていく子牛のようにも見えたのは、ひとえに彼の隣にいる身長190cmを超える体格のいい男のせいだろう。
細身だが決して小さくはない露伴も、彼と並ぶとまるで子供だ。
いくら恨みと殺意のこもった目で睨まれようと、粋がって爪を出す子猫にしか見えずに苦笑するしかなかった。

「……何笑ってるんだい、康一くん。キミは僕との約束を反故にしたのがそんなに楽しいのかい?」
「やだなあ違いますよ先生、さっきも説明したじゃないですか。今日、母さんが頼んだ家具が届くらしいんですけど僕ん家いま誰もいなくて……」

母さんったら日にち忘れて旅行行っちゃうんだもんなぁ……。
ため息混じりにぼそりとボヤキを挟んで続ける。

「で、今朝急に頼まれて、僕が受け取ることになったんです」
「そんなの隣の人に預けておけばいいだろう」
「無理ですよあんなデカくて重たいもの。迷惑だし、第一隣に住んでるのは老夫婦なんですから」

夕方には模様替え終わらせて帰ってきますから、ね? 露伴先生。

……そんな風に康一に言われると、露伴は弱かった。
悔しそうに鼻の頭に皺を寄せ、ぎりぎりと歯を鳴らし、しかし最後には「……わかったよ」、と投げやりに吐き捨て、続いて"だいたい夜に行くって言ったのにこんな時間から来るだなんて何考えてるんだ"と小さな嫌みを忘れずに付け足すと、きびすを返してさっさと家の中へと入ってしまった。
それに、いつもどおりの口癖を呟きながら承太郎が続いたのが午前十時過ぎ。
それからきっかり六時間、冒頭の話に戻るまで、二人の間にはほとんど会話というものはなかった。



***************



長い回想を終えた露伴は、何気なく手元を見てからいつのまにか自分が二人分の紅茶を淹れていたことに気付いて舌打ちをした。別にもてなす気がないわけではないが、自分が知らずにそれをしようとした事に腹が立ったのだ。

だが、一度淹れたものを元に戻すことなど普通はできない。できるとしたら仗助のクレイジー・ダイヤモンドくらいだが……、少なくとも露伴のスタンドにはそういった能力は付いていないのだ。
仕方なしに、彼はカチャカチャと音を立てながら仕事部屋まで戻った。



お盆で塞がった両手を憎々しく眺めながら苦労して扉を開けると、露伴が出て行ったときの体勢のまま一歩たりとも動いた形跡の見られない承太郎の姿がまっさきに見えた。
承太郎は、露伴が部屋に入ってきたことに対して何の反応も見せず、ただただ読書に没頭していた。

何か声をかけたほうがいいのか。というか、声をかけなければ紅茶が冷める。
そう思い、軽く息を吸い込んだ露伴だったが、ある事に気付いて思わず口を閉じた。
それから、キュルキュルと軽く音をたてながら椅子を引っ張ってきて、彼の正面に陣取る。

"観察"は彼の趣味の一つだった。

軽く組んだ脚に肘を乗せ、ぱらり、ぱらりとゴツゴツとした長い指がページを捲る様は同じ男から見てもさまになっている。
外国の血を感じる彫りの深い顔が、文字を追うように時折緩く上下するところなど映画のワンシーンのようだ。
そして、一枚ページを捲っては深く読み込み、時折数ページ戻ってはまたそこから読み出す。
そんな事をいつまでも繰り返すところなど、なんというか。なんというか……



「…………遅いッ!」

いくらなんでも、まどろっこしかった。


「ちょっと承太郎さん、あんた何やってんですか!」
「…………ん?」

ややあってようやくこちらに目を向けた承太郎は、手元に視線を落として「借りた」とだけ言った。

「借りたァ?馬鹿にしてんですかそんなのは知ってますよ、僕はただ…」
「……いけなかったか。部屋にある本なら好きに読んでいいと言われたはずだが」
「ち・が・う!」

ダンッと紅茶を乗せたテーブルを叩き、真面目に答えろとばかりに承太郎の手の中にある……彼の著書・ピンクダークの少年を指差す。

「それ! いったいいつになったら読み終わるんです! さっきから見てりゃあ同じページを行ったり来たり! そんなにわかりにくい話を書いた覚えは僕ァ無いんですがね!」

フンッと鼻を鳴らし、蔑んだような視線を向ける。彼にしたら馬鹿にされているような気分だったのだ。読者に見せるために漫画を描いているとはいえ、承太郎は一向に先に進まずにページを戻ってばかりいるのだから。

「そんなにつまらないんでしたら読むのを止めても一向に構いませんけどね! 義理で読まれちゃあそれこそ腹が立つ!」

フンッ! 今度は先程よりもあからさまに鼻を鳴らし、テーブルに置いた紅茶すらも憎憎しげに睨み付ける。こんなヤツに淹れてやっただなんて。思いながらガッとカップを一つ掴み、ぐいっと飲み干す。幾分冷めて飲み易くなっていた紅茶は露伴の喉を勢いよく鳴らした。続いてそのまま二つ目のカップに手を伸ばす。苛立ちを飲み込むように、自分の失態を飲み込んでしまおうとしているのだ。しかし

「……っうわ!」

首の後ろをぐいっと引かれてしまっては、紅茶どころではなかった。慌てて足を踏ん張り体勢を立て直す。文句を言おうと口を開くと、それより先に承太郎の端正な顔と目が合った。整っているだけに迫力が違う。一瞬言葉を忘れた露伴は、ややあって彼がその視線で指し示すものに気付いて眉を寄せた。それは、今の今まで彼が読んでいた露伴の漫画だった。

「……なにが言いたいんですか」
「これの」

パラ。何枚かページを捲り、登場人物の台詞をなぞる。

「これの? なんです?」
「この台詞がだな」

続いてパラパラとページを進め、ページの端の小さなコマを指差す。主人公が目を閉じている、ただそれだけのシーンだ。……傍から見れば。

「ここに、掛かっているんだろう?」

わずかに目を見開いた露伴は、承太郎の顔を見返す。彼は次に、別のページのコマを指して同じように言った。次も。その次も。言い当てた。作品に込めた露伴の思惑を。本編とはあまり関わりが無い部分での小さな遊び心を。

「承太郎さ…」
「遅くなって当然だろう。こんなものがそこかしこに散らばっている。全部拾い集めようとしたらそれなりに時間はかかるものだ」

そう言って、再び椅子に沈んだ。もちろん漫画を手に持って。

先程と同じように、ぱら、と捲れるページをしばらく見ていた露伴は、思い出したように残ったもう一つの紅茶に手を伸ばすと、やはりそれを飲み干した。

そのまま黙って部屋を出て、戻ってきた露伴の手には。

「…………どうぞ」

小さなお盆があった。淹れたての紅茶が小さな茶菓子と共に乗せられている。

「…………海、行ったらコキ使いますからね。今のうちに体温めといてくださいよ、風邪ひいたって責任はとりませんから」

フン。小さく鼻を鳴らした露伴は、椅子を窓辺に持っていって窓枠に肘をついた。康一が来たら真っ先に嫌味を言ってやろうと思ったのだ。
やれやれだぜ。後頭部から聞こえたため息は綺麗に無視をしておいた。




End.
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