作品

□海
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ドライブに行かない?
彼女がこう提案してきたのは、あの日からちょうど五年が過ぎた日の事だった。

「迷惑だったかしら。ギャングのボスをドライブなんかに連れ出すなんて」
「そんな事はありませんよ」
「でも、ミスタにも何も言わないで来たんでしょう?やっぱり少し、気が引けるわ」
「構いませんよ。それで大変な思いをするのは僕ではなくてミスタですから」

フフッと冗談めかして言うと、彼女は口元に手を当ててクスクスと笑った。

彼女――トリッシュは、綺麗になったとジョルノは思う。姿だけではない。しばらく会わないうちに、言葉遣いも、物腰の柔らかさも、女性として洗練されていたのだ。同時に、自分たちのいる世界とはやはり違う種類の綺麗さがあるとも思った。普通の学校に通い、普通の女性として生きていれば身につくそれは、確かな結果となって彼女の風貌をかたちどっていた。あの時代、ジョルノ達が命をかけて守り抜きたかったものは、これだったのだ。

「それで、どこへ行きます?」
「どこって?」
「ドライブですよ。どこか行きたいところがあったのでしょう?」

運転席から横目で助手席を見やれば、彼女は軽く首を振ってみせた。

「特に無いの。行きたいところなんて。ただあなたと話がしたくて……」
「そうでしたか」

にこり、と笑ってジョルノは車を走らせた。
おそらく後ろめたい思いがあったのだろう、わずかに眉を寄せて息を吸い込んだトリッシュを制するように、ハンドルを切って口を開く。

「ならちょうどよかった。実を言うとね、行きたいところがあったんです、僕」

ジョルノの言葉に、トリッシュはいささかホッとしたように息を吐いた。ジョルノも内心胸を撫で下ろしていた。彼女の口から謝罪の言葉など聞きたくはない。

エンジン音は静かだ。ギャングのボスの私物としてはいささか頼りないその車は、しかし大衆車の中では抜きん出て高級な部類にある。ジョルノはそれをとても気に入っていた。あまり新しくはないが質の良いオーディオもだ。だが今はそれも沈黙を保っている。ラジオの一つでもつけてやればいいのかもしれないが、ジョルノにとってはこの沈黙が今は心地良かった。

「海がね、見たかったんですよ」
「海?」
「ええ」

アクセルを踏み込んで速度を上げる。海沿いの道を進むにつれて、人家も少なくなってきていた。

「好きなんです、海」
「そうなの……私もよ」
「でも最近はなかなか来られなくて」
「忙しくて?」
「はい。それと、……一人で、見る勇気がなかったのかもしれません」

薄く笑って、ジョルノはちらりと窓の外を見た。するすると滑るように後ろへと流れる景色は、奥の方から徐々に黒く染まっていく。あれだけ青く明るかった空が、少しずつ色を無くしていく。夕陽が海の向こうに沈んでいく。ジョルノはまたスピードを上げた。

「『もしも』って思うこと、ありますか?」
「もしも?そうね……たまになら」
「そうですか。僕も、たまに思います。本当はそんな無駄な事、あまり考えたくはないのですが」
「……そうね。無駄よね、仮定の話なんて」
『でも』

二人の言葉が重なった。ジョルノは気まずそうに笑って、トリッシュはわずかに目を細めて、互いに目配せをした。

「……でもね、私は思うのよ。最近なんか特にそう。歳が……近くなったせいかしらね」

誰に、と彼女は言わなかった。言う必要が無いと思ったのだ。ジョルノは少し目を伏せて、控えめな声を発した。

「僕はもう追い越してしまいました」

フロントガラスから空を見る。とうとう陽の落ちた空は、海をも黒く染めていた。

「もしも、って。僕も思いますよ。特にこうして海を見ているとね、どうしても思い出してしまう」

キュ、とタイヤが音を立てて止まった。着いたのだ。海岸に。
車を降りる。助手席に回って扉を開けると、トリッシュは差し出した手を取ってゆっくりと立った。

「……あの時の僕らには、”パッショーネのボス”がとんでもなく強大なものに見えた。事実そうだった」
「ええ」
「まるで夜の海のようだった。激しい波がひっきりなしに打ち寄せた。僕らのようなちっぽけな人間の意志も、夢も存在をも全て飲み込んでしまうような」
「…………」

トリッシュは、自分の心臓の辺りをぎゅうと握った。彼女は今も感じていた。終わりの無い人生をずっと送り続けている父の気配を。

「その海を、あの人はずっと進んでいたんです。荒波から僕らを守るように、たった一隻の船になって。海から見ればほんの小さな船だったけど、僕らにとってはとても大きかった」

海風が二人の髪を揺らす。黒い波が打ち寄せる浜辺を遠くに見ながら、二人は並んで車にもたれかかった。肌を刺すような冷たさを感じながら、二人はしばらく海を見ていた。

「……最期の言葉。聞いたんです。僕」

ぽつり。口火を切ったのはやはりジョルノだった。

「彼は僕に言いました。”これでいいんだ”と。魂が昇ってしまう間際」
「……そう」
「言ったんです、僕に。”いいんだ”と……」

ふう、と白い息を吐き出す。続きを話すまでには、幾分時間がかかった。

「……彼は、相応の覚悟を持ってあの戦いに臨みました。結果、彼の夢は叶えられた。彼の望んだ世界になった」

……でも、その世界に彼はいない。
小さく首を振って、視線を落とす。
”いいんだ”。
もう一度呟いて、トリッシュを見た。

「あの時、僕にはどうしても、あの結果が最良のものには思えなかった。完全な勝利とは思えなかった。……それを、知っていたからブチャラティは……」
「……言ったのね、あなたに。あなたが道を迷わないように」

“後悔”は人を迷わせる。後ろばかりを見て歩く人間が、うまく前に進めるはずがない。ブチャラティはそれを、身をもって知っていた。人の体を治せるはずのジョルノが、間に合わなかった教会での出来事を気に病まないはずがないと知っていたのだ。

「僕は迷わなかった。死んでいった仲間たちが、僕を導いてくれたから。ブチャラティが、僕の背中を押してくれたから。いま僕はこうしてここに居る。彼らの意思を引きついで、僕らみんなが望んだ国を作ることができている。だから、今はもう良かったんだと思える。……だけど、心のどこかでは。……あの言葉の意味を、僕は今も否定したがっている」

ほんの囁くような声で、ジョルノは言葉を落とした。トリッシュは、その手をそっと取った。あの時、柔らかく、頼りなかった指は、少年らしさを無くして長く伸びた。彼の手に似ていると思った。繊細で、あまり男らしくはないが、握れば逆に包み込まれるような安心感があった。
その手をぎゅっと握り返して、ジョルノは顔を上げる。その顔からはもう、陰りが消えていた。

「……やっぱり思っちゃいますよね、もしもここに、彼が居てくれたらって」

空気を変えるように軽い口調でフフ、と笑って、ジョルノは助手席のドアを開ける。やっぱりこの時期の海は寒いです。言いながらトリッシュを中に入れて、自分も運転席に回った。エンジンをかけると徐々に車内に暖かさが戻る。指先を数回摩って感覚を呼び戻すと、手をハンドルに置いたまま横を向いた。

「すみません、トリッシュ。今日、話がしたいと言っていたのはあなたの方だったのに。僕ばかり話してしまいましたね」
「いいのよ。……ううん。むしろ感謝しなくちゃあいけないわ。だってジョルノ、あなたは私のためにその話をしたのでしょう?」

一瞬驚いたように目を見開いたジョルノは、続いて少し笑って首を傾けた。

「半分半分、てところです」

気を悪くしました?
冗談気味にジョルノが口の端を上げると、トリッシュはまた首を振って、その逆。と言った。

「言ったでしょう?感謝してるって。すごくすっきりしたのよ、だって後悔してるのが私だけじゃあないってわかったんだもの。……ありがとう、ジョルノ」

その言葉を聞いて、ジョルノはハンドルを回した。暗い海に背を向けて、ぽつぽつと明かりの灯る街道へとアクセルを踏み込んだ。

遠くで鳴った船の汽笛が、広い海に染み込んでいった。





End.
 

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