作品

□猫に香水
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「たまに、さ」

長いソファの端と端。付き合い始めてしばらくの間、イルーゾォはいつだって俺から距離をとってちょこんと座っていた。側にいすぎて嫌われるのが怖い、と言っていたが、その控えめな態度はますます俺を惹きつけた。

「つけてるよね、香水」

ぱち、ぱち、と適当にチャンネルを変えながら、そんなしおらしさを含んだ瞳をこちらに向けたイルーゾォは、わざわざバラエティーに合わせたテレビに興味を示すわけでもなく、まるで猫かなにかのようにソファに両手をついて伸び、俺の肩のあたりをすんすんと嗅いだ。

「ほら、今も」
「あー、そうだなぁ、そういや今朝つけたかも。今日は任務もなかったしよ。……なに、もしかして嫌だった?」

すると、ぶんぶんと必要以上に首を振ったイルーゾォは「嫌じゃあないよ、全然」と慌てたように否定した。

「ただその、……いい、匂いするよね、それ」
「そうか?」

控えめにほほ笑むイルーゾォに気をよくしてしまう俺はいたって単純な男だ。つい今しがたまで使っていた外出用の鞄をごそごそと漁って、小さなガラス瓶を取り出す。

「ほら、これ。見たことあるか?」
「いや、ごめん、俺あんまり香水とか知らないから……。でも、すごく、綺麗」

やけに大事そうに受け取ったそれをくるくると回し、キャップを外して噴射口に鼻を寄せる。「ふうん、これかぁ」納得したように頷いて、グラッツェ、と手の中に戻される小瓶。その後のイルーゾォはとりたてて香水に興味を示すこともなく、再びぱちぱちとチャンネルを変えていた。



そんなやりとりから数日後。
やはりソファの端と端に座っていた俺たちは、相変わらず見るともなしにテレビをつけていた。

「ホルマジオが使ってるのってさあ」

それはちょうど、画面いっぱいに産まれたばかりの子猫が映し出された時だった。

「本当にあれだった?」
「あれって?」
「香水」

こういうの、とご丁寧にも指で瓶の形を作ったイルーゾォは、怪訝な顔をしながら頷いた俺を見て「もう一度見せて」と詰め寄ってきた。別にいいけど、と渡してやると、この間と同じように念入りに観察しながら鼻の頭をひくひくと動かす。「んー……?」だとか「これだよなあ……」だとかの独り言をしばらく続けた後、ちょっとごめん、との断りを挟んで、イルーゾォはいつかのように俺の肩のあたりをすんすんと嗅いだ。そしてまた傾げられる首。

「おいおい、いったい何なんだ?なんかおかしいか?」
「んー……、うん。おかしいよ。ぜんぜん違う。香水と、ホルマジオの匂いと」
「そんなに違うかあ?」
「違うよ。これ、けっこうスッとしててさ、爽やかなにおいなのに、ホルマジオはこう、……男っぽい?ドン、とした感じなんだ」
「なんだよそれ」

ハハッと笑って、すぐ横にある頭をぽんぽんと叩く。わずかに顔を赤らめてするすると引っ込んでいったイルーゾォは、手の中の小瓶に視線を落としてなおも釈然としない表情をしていた。

「まあ、香水ってのはつける人間によって色々と変わるもんだからな」
「え、そうなの?」
「そうだぜ?同じ香水でも、時間の経過によって香りが変わったりするし、あとはほら、体臭とかと混ざるとまた違ってくるんだよ。お前のいう"ドンとした匂い"ってのも、その辺が関わってんじゃあねえかなあ」
「ふうん。……そっかあ、そのせいか。同じの買って使っても、ぜんぜんホルマジオの匂いにならないんだもんな」
「…………ん?」

そっかそっか、と一人で納得する黒い頭にもう一度ぽんと手を乗せる。「なに、買ったのか?同じの」
すると面白いほどに跳ねる肩。じわじわと頬が染まり、見開いた目がうろうろと泳ぎ、しまいには「……か、買ってない、よ?」との声までもが思いきり裏返っていて、俺は思わずブハッと吹き出してしまった。

「な、なんだよ、……か、買ってないからな、本当」

それでもなお下手な嘘をつき続けるイルーゾォは、真っ赤に染まった頬を隠すようにうつむいた。長い指の先でくるくると小瓶をもてあそんで、すぐ隣に座りなおした俺が軋ませたソファに、黙って揺すられている。

「イルーゾォ」

名前を聞いた瞬間にぴくっと力の入った肩を抱き寄せて、細い体を自分に押しつける。

「別にさ、匂いくらい、嗅ぎたくなったらいつでもくっついてこいよ。好きなんだろ?この匂い」
「そ、れは、ダメだよ、だって、」
「なに」
「ホルマジオの匂い、好きだけど、……好きだからこそ、いつでもなんて、そんなの。言われたら、ずっとくっついてたくなるじゃあないか。が、……我慢、できなくなるから、やだ」

我慢って!俺はまた吹き出して、その後に少しばかり顔が熱くなった。
つまりイルーゾォは俺の匂いが好きで、でも自制しなければならないからと、代わりにわざわざ同じ香水を買ってまで俺の匂いを再現しようとしてくれていたらしい。本当にこいつは、とんでもなく可愛いことばかりしてくれる。

「いいじゃあねえか、我慢なんてしなくても。だって付き合ってんだろ?俺たち」
「でも、……でも」
「俺はお前とこうしてくっついてられんの、すげえ嬉しいんだけどな」

笑って言うと、抱いた肩がまたぴくっと揺れた。「それ、本当?」
もちろん。答えると、安心したように頬を弛ませて笑ったイルーゾォは、上半身の向きを変えて、おずおずと俺の腰に両腕を回してきた。
ちら、と視線を上げて俺の表情を伺ってきたので、笑って頭を撫でてやる。すると安心したように頬をすり付けて、首もとに顔を埋めてきた。

ぐりぐりと動く頭を見下ろして、そういえば、と思い当たる。ここまで密着したのは、付き合い出してから初めての事だったかもしれない。怖がりで恥ずかしがり屋のイルーゾォは、いつだって俺と距離を取りたがっていたから。

そう感じるとこの体勢がひどく貴重で、むずがゆいもののような感じがして、否が応にも体に緊張が走る。黒髪を撫でる手がぎこちなくなり、ともすると、ドキドキとした心臓の音が彼にまで聞こえてしまいそうだった。まるでガキの初恋さながらの青臭い感情に、ガラにもなく照れてしまい、それを隠すように回した腕に力を込めてやると、いっそう強く顔を押しつけたイルーゾォは、嬉しそうに頬を弛ませて鼻をすんと鳴らした。

「んん……、幸せ……」

やや浮ついたように言葉を紡いで、イルーゾォの鼻は俺の首から胸に落ち、胸板に顔をうずめたときには熱い息を吐き出して、長いまつげをうっとりとしばたたかせてみせた。
そのさまは、子猫が母猫に甘えるときの仕草そのもので、テレビ画面に映るそれと重なるイルーゾォの姿は、間違いなく俺の心を弾ませた。それは同時に、先ほどの軽はずみな言動を俺に後悔させる。

(いつでもくっついてこい、だなんて簡単に言うもんじゃあなかったなぁ……)

正直、ただくっついているだけのこの状態が今後もずっと続くのだとしたら、拷問以外の何物でもない。嫌なわけでは断じてない。が、俺も男ということだ。彼に回した腕には、無駄な肉のひとつもない、よく締まった細い腰の感触があり、逆に回された腕からは、少し温度の低い指先が伸びて俺の上着を控えめに握っている。その状態で無防備かつ幸せそうに目を細められてしまえば、薄く開かれた唇に目がいってしまうのも当然だった。

(キス、してえなあ……)

胸板にすり寄る火照った頬を手の甲で軽く撫で、空気を肺いっぱいに取り込もうと使われ続ける鼻のあたまを指先でトンと叩く。ゆっくりと顔を上げたイルーゾォの薄い唇を親指でなぞり、いっそ無理やり奪ってしまおうか、とまで考える。

しかし、自分を見上げる瞳があまりにも純粋なもので、内心苦笑してしまった。
何を考えているんだ、俺は。
こうして触れ合うことさえ戸惑っていた奥手なイルーゾォの唇を、自分の欲だけで汚す真似はしたくなかった。

かわりにもう一度、今度は手のひらで頬を撫で、頭を引き寄せて黒髪に鼻を埋める。とたんにふわりとわき上がる、甘さを含んだ香り。洗髪料と、イルーゾォ自身の体臭が混ざり合ったそれは、俺にとてつもない安心感を与えた。

「…………あー……」
「な、なに?」
「今、わかったかも。お前がなんでそんなに匂いに興味を示すのか」

つい今しがたまでは、飽きることなく俺の匂いを取り込み続けていたイルーゾォの事を、可愛いながらも珍しい趣味を持つやつだと思っていた。が、今こうして同じ立場に立ってみるとわかる。イルーゾォが心底幸せそうにしていたのは、いま俺自身が体験した、相手が好きだからこそ感じる安心感を得ていたからに他ならないのではないだろうか。

「すっげえ安心するんだな、好きなやつの匂いって」
「わ、わかる?」
「ああ。人間っつっても、やっぱ動物と同じなんだろうなあ。ほら、さっきからあの猫も、ずっと匂いばっか嗅いでる」

未だにつけっぱなしだった画面を指すと、イルーゾォは首をそちらに向けて、ふっと頬をゆるめた。

「ああ、子猫かあ。小さいな。可愛い」
「可愛いよ。あいつ、すげえお前に似てるもんな」

こうやって、くっついて離れないところとか。
からかうように笑うと、イルーゾォはやや頬を赤らめて身をよじった。「じゃあ、母猫はホルマジオだな。毛の色が似てるし」
恥ずかしまぎれの言葉のあまりの可愛らしさに、それこそ猫にするよう喉をくすぐってやる。ごろごろと、喉が鳴らないかわりに全身を震わせて、イルーゾォは俺の首に両腕を巻きつけてきた。
子猫が母の前足にじゃれつけば、二の腕にくっついてきて指先を俺のそれにからませる。短い四肢を総動員してふわふわの背中に飛び乗れば、前のめった俺の背中にべったりと胸をつけるようにして、後ろから抱きついてきた。そして、すっかり子猫と同調したイルーゾォを背に負って二人してケラケラと笑った頃。

「あ」
「あ」

にゃあ、といっそう甘えた声に誘われて画面を見やれば、ふさふさとした首の下にもぐり込んだ子猫が、小さな体を精一杯に伸ばして母猫の口元をぺろりと舐めたところだった。

ソファに横に伸びた二本の脚がびくりと震え、首に回った腕には緊張したようにグッと力が入った。ああ、なんてことを。俺は画面の中の猫に若干の落胆を覚えた。せっかくあのイルーゾォが、遠慮を乗り越えてじゃれついてくれていたというのに。人間でいえばいわゆる"性"を感じさせてしまう行動を目の当たりにして、我に返ってしまったではないか。

盛大ながっかり感と、楽しい時間の終わり。首に巻きついたままの腕を軽く撫で、何か気まずくならない程度に声をかけてやろうと、首を後ろに向けた。その時。

ぺろ、と。湿った何かが下唇に当たった。

「…………え」

口から出た声は予想外に情けない。まるで夢と現の間をさまよっているかのような、浮ついた思考。実際、いま起きた出来事が信じられなかった。

俺の唇から顔をゆっくりと離したイルーゾォは、回した腕をするりと外して、いきなりごめん、と呟き、不安気な瞳を揺らしておぼろげに瞬いた。その唇はわずかに湿気を帯びており、それを目にした瞬間に俺は、ほとんど衝動的にイルーゾォの後頭部を引き寄せていた。

「ん……!」

小さく響く声が、振動が唇を通して伝わってくる。ただ口を合わせているだけで、こんなにも幸せな気持ちになれた事が今まであっただろうか。わずかにかかる鼻息と、染まった目元。伏せられたまつげが作る長い影。視覚から、触覚から煽られて、唇をはむように動かせば、ぴく、と跳ねた体の動きが手のひらをつたってきた。

いったん顔を離して、濡れた息を吐き出すイルーゾォを今度はそっと抱き寄せる。胸と胸を密着させて、表情を正面からのぞき込んだ。とろんとした目は俺をまっすぐに見つめ、濡れた唇は、先をねだるように薄く開かれた。もはや俺の頭からは我慢という文字が消え去った。衝動のままにむしゃぶりつく。

下唇を舐め、吸い、頭を撫でてやりながらとうとう舌を差し込んだ。萎縮して引っ込んだ舌をからめとり、グッと後頭部を寄せて奥まで吸い尽くす。完全に俺に身をまかせていたイルーゾォは、唇を離したとたんにぐったりと胸元に沈んだ。大きく上下する肩。可愛い、と囁いて頭を撫でれば、また深く顔を埋めて。


……すん。


「…………」
「んんー……、好きぃ、ホルマジオ……」

好き、好き、と呟いて、それより高い頻度ですんすんと鼻を鳴らした。

イルーゾォは匂いが好きだ。実際俺自身も、先ほどようやくその魅力に気がついたのだ。落ち着く。安心する。そんな魅力の存在を。

だが、これはどちらかというと……

「ふあぁん……」
『にゃあぁん……』

テレビのスピーカーから聴こえる、とろけきった猫の鳴き声。イルーゾォの声と重なって、響いた。

キスに夢中になっている間にずいぶんと成長していた子猫――オス猫はいま、飼い主にマタタビを貰って、ごろんごろんと全身を使って悦んでいるところだった。

「イルーゾォ。……ちょっと」

べったりと胸に張りつくイルーゾォをなだめながら、その手のひらにずっと握られていた香水を抜き取って眼前にさらす。
最近では珍しい、天然の麝香を原料とするそれは、比較的自然な香りと持続時間の長さに惹かれて買ったものだった。
その『麝香』には確か、……ちょっとした興奮作用があったような……?

「あー……」

ボリボリと頭を掻いて、未だにうっとりと体を預けるイルーゾォを見下ろす。
もちろん、興奮作用といってもごく微力なもの。イルーゾォがこうも骨抜きになったのが、全て香水のせいなわけではない事は理解している。だが。

大した躊躇もなく抱きついてくれたのも、キスをねだられたのも、なんとなく香水に頼った感じがして、妙な脱力感があった。
猫にマタタビ。イルーゾォに香水。だとすると、……だとすると――


画面の猫、あんなにじゃれついていた母猫を置きざりにして、未だマタタビとゴロンゴロン。ポツンと置かれた母猫、どこか寂しそうにニャアと鳴いた。


――俺、いつかああなんのか?


不思議そうに俺を見上げたイルーゾォは大きな猫目を瞬かせた。

なんとなく、香水を捨てる事を決意した瞬間だった。





End.
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