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立ち話
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最近は西ブロックの雑踏にもずいぶんと慣れてきた。
日中でも太陽が当たらず水捌けの悪い地面は戸板が敷かれおり不規則にある出っ張りに足を取られる事も少なくなった。
人ともぶつかる事も減った。
それは、進歩であり自分がここに馴染んできた証拠だろう。
今日も何時もの様にイヌカシの所の犬と一緒に帰路についている途中、不意に誰かに腕を引かれた。
細い路地裏から伸びて来た手に驚き、自分を引き留めた人物に更に目を丸くする。
自分の反応にしてやったりという風に赤い口紅が引かれた唇が楽しそうに歪められた。

「久しぶりね、ぼうや」
「あなたは‥」

自分を引き留めた人物は初めて自分が西ブロックを歩いた時に会った娼婦の女だった。
相変わらず胸元が大きく開いた服を着ていて寒そうに見える。
微かに風に揺られてむせる様な香水の匂いがした。

「っ…」
「あら。そんな警戒しないでよ、ぼうや。別に取って食いやしないのに」

唇と同じ赤い爪が離さないとでも言うように腕に食い込む。
一緒にいる犬が姿勢を低くして威嚇をする。

「おや、怖いねぇ。だから取って食いやしないって言ってるのにさ」


おどけてすぐに絡めていた腕を離す。

「あの…」
「唾つきの男なんか誘いやしないよ。ただ暇だからちょっとぼうやと世間話しようってだけだって」
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
「そろそろ“ぼうや”って呼ぶの止めてくれません、か‥?」
「……」
「……」
「……くっ、あははははは!!!」

突然女が身体をくの字に曲げて笑い出す。
余りに声が大きいせいで道を歩く人間が何だという風にこちらを見て、けれどすぐに通り過ぎて行った。
女は涙を浮かべながらも少しは落ち着いたのか曲げた背中を伸ばしこちらを向く。
しかし今にもまた笑いだしそうな雰囲気だ。
証拠に肩が小刻みに震えている。

「あー‥笑った笑った。久しぶりにこんなに笑ったわ」
「はぁ…」

正直、自分の発言のどこにそんな笑える要素があったのかわからず戸惑う。
どうしたものかと犬を見やると既に地べたに座りこんでいた。
なんてマイペースなんだ。

「そうだねぇ。じゃあまずは名前を聞かせて貰おうかしらぼ、う、や」
「……紫苑です」
「紫苑?あぁ、確か花の名前だっけか。ずいぶん可愛い名前なのね」
「えぇ。‥えっと、あなたは」

何と呼べば良いのか。

と聞くと女は片頬だけで笑う。

「道端の娼婦が人に名乗る程の大層な名前なんて持ってないさ。だから好きに呼んでちょうだいな」
「え‥じゃあ“お姉さん”」

と提案した。
他に言い様も無いし、と思ったのだがまたおかしな事を言ったのだろうか女はまた笑った。
笑うとは言うが静かに。
何故か寂しそうに。
女の赤い爪の手が伸ばされ自分の頬を撫でられる。
薄着だからだろう刹那触れた手は氷の様に冷えていた。

「‥なんだか、懐かしい呼ばれ方だわ」
「…?」
「兄弟がいたのよ。下の子らがあたしを姉さんとか姉ちゃんとか呼んでいたって話さ。紫苑と歳が近いからかぶったのかしらね」
「‥兄弟いるんですか」
「いっぱいいたわよ。ここには誰が親かさえわからない子どもがわんさかいるんだから」
「‥その子達は」

――その子達は“もう”。
さっきから話し方がずっと過去形から動かない。
それがどういう意味なのか、解る程度にはここがどういう場所なのか理解できていた。
女はやっぱり微笑った。

「ここはそういう場所なのよ」
「……」
「だから。ここの人間達は人と深く関わる事を恐てる」

皆して臆病者だからね。


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