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□ピクトリヱル/アナトミカ 2
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きれかけた画材と、ビーフシチューの材料をぶら下げて帰宅した。
マンションのエントランスをくぐった途端、強い違和感を覚えた。
最初は、気のせいかと思ったが。
違う。
幾人かの住人が、明らかに俺の方を盗み見ては。時折、顔をしかめている。
嫌な予感がした。
思い起こせば、今日だけじゃない。
数日前から、異常はあった。
顔を合わせれば、挨拶をしていたはずの隣人が。俺の姿を見るなり、眼を背けるようになった。
管理人が、もの言いたげな顔つきで。管理室のガラス越しに、じっと俺を見ていた。
絵の具の匂いが、部屋から漏れているのかもしれない。
特別な対策をとっていたわけじゃない。壁にも服にも、あの独特のにおいが染み付いていたとしても、不思議は無かった。
俺と隆一には、生活の一部でも。周りの奴等にとっては、迷惑なだけなのだろう。
だとしたら。いっそ、ここを引き払って。
都心を離れた、広い家を買って。
ふたりだけで。静かに暮らすのも、悪くない。
その方が、周囲の雑音を気にせず、創作に打ち込めるはずだ。
戻ったら。あいつに伝えよう。
きっと。賛成してくれる。
嬉しそうな。隆一の笑顔が、眼に浮かんだ。
そんな計画を巡らせながら、エレベーターのボタンを押した時。
ふと。気が付いた。
短く切り揃えた、爪の間。
絵の具が、こびり付いている。
真っ赤な、絵の具。
瞬間。何かが。
何かが、不自然だと感じた。
なんだろう。
ひどく。重要なことを忘れている気がする。
思い出せない。
この色は。
隆一を、描く色だ。
隆一の、色。
あたたかい、内側の。
真っ赤な。キャンバス。
動かない。
隆一。
その先が。
どうしても。思い出せない。
じんわりとした浮遊感に襲われる、眼の前で。音も無く。
エレベーターの、ドアが開いた。
廊下を進み、角を曲がる。
自室へと続く、いつもと同じ風景が待っているはずだった。
だが。俺の眼に、飛び込んできたのは。
部屋の前でうずくまり、嘔吐する管理人の姿だった。
俺の、部屋の前で。
まただ。
違和感。
この、感覚は。
弾かれたように。足が動く。
ドアの鍵は、開け放たれ。
玄関先で、壁にもたれるようにして立ち尽くす。もう一人の男が、振り向いた。
井上だった。
何があった。
質問は、声にならなかった。
彼は、涙を流していた。
片手で口を覆い。痩せた頬を、不釣り合いに零れ落ちる。大粒の雫。
哀しみ。恐れ。怒り。
それらが複雑に入り混じった泣き顔は。長い付き合いの中でも、初めて眼にするものだった。
「隆は?」
やっとのこと。小さく尋ねた、俺の声に。
彼の表情は、あっという間に崩れ。糸の切れた操り人形のように、その場にへたり込んだ。
苦渋に満ちた嗚咽が響き。
遠くで。サイレンが聞こえる。
次第に近付いてくる、その音に。
鳴りやまない。拒絶の悲鳴が重なった。
はっとして、顔を上げると。
廊下の向こう。リビングのドアを開けて。
はだかの爪先が、俺を迎えた。
『おかえり。潤。』
隆一は。笑っていた。
幸せそうに。
『ずっと。一緒に、いようね。』
ああ。
もちろんだ。
夢なんかじゃない。
二度と、すれ違うことは無い。
ここを出て。ふたりで、暮らそう。
未完成の絵を、描き続けよう。
ようやく。手に入れたのだ。
答は、すぐ傍にあった。
なんのために生きるか、じゃない。
『誰のために』、生きるのか。
永遠に、変わらないもの。
追い求めていた。理想を。
真っ赤な絵の具に、塗り潰されたキャンバス。
「殺してやる」と、囁きながら。
くちづける。
腐敗してゆく世界で。たったひとつ。
うつくしい未来が。その中には、あった。
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