JR@

□フリージアの咲く部屋/3
2ページ/3ページ







合鍵を使って入った、隆一の部屋は。

ひたすら。黒い闇に、塗り潰されている。

奴の姿は。無い。

唯一、間断無く響く。シャワーの水音が。

俺の耳を、捉えた。

呼んでいる。

反吐が出そうな想像を、確信へと変えながら。

のろのろと。浴室のドアに、手をかける。

音も無く、開かれた。扉の向こうに。

隆一は、いた。

服を身に付けたまま。浴槽のへりにもたれて。

冷えきった、タイルの上に。

うずくまっていた。

だらりと垂れた左手の傍らには、使い古されたペティナイフと。

安価な絵具の色にも似た。現実味の無い、赤が。ぶちまけられて。

どこまでも。広がっている。

俺を。嘲笑うかのように。

目の前の光景が、これまでと違うのは。

火を見るより、明らかだった。

頭を垂れて。ぴくりともしない、隆一と。

かなりの深さで切り裂かれた。白い腕。

水を張った、浴槽の底に沈む。携帯電話。

赤い、血溜り。

流れ出した。いのち。

どうすれば、いい。

何を、すれば。

身体が、動かない。

出血が。ひどい。

動転しているのか。俺は。

こんなにも。

隆一が生きているのか、死んでいるのか。

近付いて、確かめることさえも。できない。

こんな時は。

そうだ。こんな時は。

救急車だ。

とにかく、電話するのだ。

ようやく、思い立つことができた。俺は。

どうしてか。その場を一旦、離れ。

自分でも、わからぬままに。119番をコールしたらしい。

よく、覚えていない。

まるで、全てが。夢の中の出来事だった。

それから。

恐る恐る、浴室へと戻る。

隆一は。さっきと全く同じ姿勢で、俯いたままで。

わずかな希望も、否定されてしまう。

ナイフも。赤い血溜りも。跡形も無く、消え去って。

何事も無かったかのように、小憎たらしい笑みを浮かべている。

いつもの隆一が、いるのではないか。と。

起き上がって。何もかも、「うそだよ。」 と。

たちの悪い、悪戯を。見慣れた危うげな瞳で、告白してくれるのではないか。と。

駄目だ。

しっかりしろ。

逃げるな。

眼を。逸らすな。

意識が、ことごとく散らばって。為すべき行動の処理ができない。

勢いよく浴槽に注がれる。シャワーの水音が、うるさいことに。今更、気付く。

蛇口を捻り、雑音を追い払った。

静けさの戻った、冷たい箱の中。

膝を折り、うずくまる。隆一は。

とても。生命ある身体には、見えない。

「隆。」

自ずと。口から滑り落ちた。

思えば。名前なんて。

ちゃんと呼んでやったことが、あっただろうか。

思い出せない。

ぐらぐらと、覚束ない。自分の頭を叱咤するように。

一歩。また、一歩と。

見知らぬ死体に、触れるような心持ちで。

近付く。

生きて。いるのだろうか。

いや。

生きているに。決まってる。

死ぬなんて。許さない。

こんな、形で。

何一つ。贖えないままで。

震える腕を、肩へと伸ばし。

包み込んで。ゆっくりと、抱き起こした。

すると。

血の気の失せた唇から、かすかながらも。

確かな。呻き声が、洩れる。

「じぇい?」

睫毛が揺れて。

朦朧と濁った眼差しが、俺を捉えた。

生きている。

そのことに。

一瞬で、力が抜けた。俺は。

その場に、くずおれた。

隆一の身体が。ぬるい水を含んだように、ずっしりと重く感じる。

命の、重さだ。

「何・・・やってんだ。バカ。」

ようやく、絞り出した声は。みっともないくらいに、掠れ。震えていた。

その様に。隆一が笑ったように、思えた。あれは。

錯覚、だったのだろうか。

「きてくれて。ありがとう。」

嬉しい、と。

うわ言のように、呟いて。

わずか開いた瞼は。またすぐに、落とされてしまう。

そのまま。救急車が到着するまで。

俺は、ずっと。奴の身体を抱きしめていた。

応急処置をとることさえ。頭に無く。

ただ、狂ったように。名前を呼び続けていた。

ぱっくりと開いた傷口から、流れ出した血液は。俺の指先を、赤く染め。

隆一の白い頬に。でたらめな道しるべを、残してゆくだけだった。






俺は。隆一のために。

何も。してやれなかった。

完全に壊れるまで、傷付けてやることも。

外の世界へと、連れ出してやることも。

扉の向こうの、同じ領域で。依り添って、立つことも。

惑うばかりで。なんの答も、出してやれなかった。

もし。

今からでも、遅くないなら。

もう一度だけ。チャンスを与えられるなら。

俺が、隆一に遺せる想いは。なんだろう。

この場所で。俺が、できること。

この場所にいる。俺にしか、できないこと。

まだ、存在するのだとしたら。

それは。






搬送先の病院で。

手術は、6時間にも及んだ。






隆一の傷を診た、医者は。

狂言で切れる深さではない、と言った。

あれだけの深さで、動脈を損傷しなかったのは。奇跡に近い。

発見が遅れていれば、危険だった。と。

俺は。どんな顔をしていいのか、わからなかった。

喜んでいいのかも。そうするべきなのかも。

病棟のはずれにある、個室へと。足を向ける。

手術を終えてから、しばらくは。精神的に不安定な状態が続き。

家族との面会も、頑なに拒否していた。隆一だったが。

現在は。落ち着きを取り戻しつつあるのだ、と。

杉の口からは。そう、告げられた。

手術後。マスコミ対策も兼ねて。杉の知人が経営しているという、この病院に。隆一は、移された。

隆一の両親も、親戚も知らない。俺が。

最初に連絡を付けたのが、杉だった。

取り乱し、泣き叫ぶのではという。脳裏を掠めた、不安をよそに。

手術室の外で待つ俺の前に。現れた、奴は。

俺なんかよりも。ずっと、冷静だった。

さすがに、顔色はひどかったものの。

的確に動いて。事務所への連絡や、その他。

知人を当たり、転院する下準備まで進めてくれたのだ。

その間も。俺は、ただ。無力感に打ちのめされていただけだ。

杉への感謝は。生半可な言葉では、言い尽くせない。

後で聞いた話だが。スタジオで、隆一の腕を目にした時から。

薄々は。勘付いていたらしい。

傷そのものを、見たわけじゃなくとも。転んだにしては、不自然な。包帯の巻き方に。

俺が杉の立場なら、気付かなかったかもしれない。

違和感を持ったとしても、数秒後には忘れてしまったかもしれない。

たすけを求める。その、サインに。

それを知った、俺は。更なる自責に陥った。

ただでさえ。大量の血に染まる、隆一の夢を。毎夜のごとく見ていた。

何もしてやれなかった自分が。責められているのだと、感じた。

いつの日か、こんな事態になることは。予測できたはずなのに。

何度も。回避するチャンスは、訪れたはずなのに。

ことごとく、掴み損ねた。過去の自分を、全て。

殺してやりたいと。思った。

日を追うごとに、不眠はひどくなり。

ようやく得られた、浅い眠りでは。血まみれの夢を見る。

アルコールは、一時凌ぎにすらならず。

このままでは、おかしくなってしまう。

見失ってしまう。

怖かった。

隆一の病室を、訪れることが。

現実を、受け容れることが。

恐ろしくて。たまらなかった。

だが。

悪夢から抜け出でる、糸口を作ったのは。

杉の。意外な告白だった。

「俺にできることは。もう、無いよ。」

すげえ悔しいけど、と。繋げる。

「俺は。隆と一緒に死んであげることなら、できるけど。隆に、希望を与えてあげることは。できないから。」

自嘲気味に呟いて、やめたはずの煙草に火を点けた。杉は。

「幸せだよね。殺したいくらい、妬ましいよ。隆も。お前も。」

殺意とは程遠い。ひどく哀しげな眼をして。

「もし、隆が。心から自殺したいと、願っていたら。俺が、叶えてあげられたのに。」

悔しいよ、と。もう一度。

涙の滲む声で。繰り返した。






隆一と、どこか似ている。杉は。

あいつが望んでいることを。たとえ、ぼんやりとでも。認識していたのだろう。

だからこそ、奴は。身を引いたのだと思う。

隆一と、同じ領域に立つ。自分では。

救えないことが。わかってしまったから。

扉の外にいる俺に。全てを、委ねて。

この場所にいる俺にしか、できないことを。伝えようとしたのだ。

俺のため、じゃない。それは。

殺したいほど、愛している。隆一の、ために。








次へ
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ