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□フリージアの咲く部屋/3
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個室のドアを開けると。少し癖のある、独特の匂いを感じる。

見ると。ベッドサイドの花瓶に。誰が持ってきたのか定かではない、白い花が活けてあった。

うつくしい花だが。その香の強い甘さは、どこか病室にはふさわしくない印象を受ける。

ベッドの上。隆一の瞼は、しっかりと閉ざされて。

寝息一つも、聞こえてはこない。

整然と包帯で固定された、傷だらけの腕から伸びる。点滴のチューブが。

奴を、白い展翅板に留められた。昆虫標本のようにも見せていた。

ここは。静かだ。

眠っているのならば。このまま起こすことなく、立ち去るべきなのだろう。だが。

どうしても、奴に。渡したいものがある。

今日だけは。特別だ。

傍らにあったパイプ椅子に腰掛けて。隆一が目覚めるのを、待つ。

安らぎに満ちたその寝顔は。生きることを自分から、わざわざ面倒にしている奴のものとは思えない。

まるで、小さな子供のように。

あどけなく。

もっと。何も考えずに、生きることができたなら。

真の意味で。無垢になることが、できたなら。

こいつは、今よりも。幸せだと思えただろうか。

孤独を忘れる代償に。その輝きを、失うのだとしても。

ここにいて、いいのだ。と。

認めることが、できただろうか。

指を伸ばして。額に貼り付いた長い前髪を、そっと払ってやる。

存在への憎悪に、何度も何度も傷を重ねた。腕以外の皮膚に、触れるのは。

これが。二度目だ。

一度目は。薄く柔らかな、唇の感触を知った。

最初で最後の。口付けの時。

そして。今この瞬間が、過ぎ去れば。

もう、決して。こんな風に触れることは、無いだろう。

隆一の額は、ほのかに温かく。

今、ここで。確かに生きていることの証明を。

息苦しいほどの、生々しさを以って。訴えてくる。

その矛盾に。

痺れるような、激痛が走った。






手首に傷を持つ。隆一の存在は。

俺が初めて出逢った。生身の「死」、そのものだった。

果敢無くも、純粋な。不条理の存在だった。

どんなに。傷を、負ったとしても。

誰も、信じられなくても。誰からも、必要とされなくても。

愛されなくても。

心臓は。止まらない。

一呼吸、一呼吸。歯を、食いしばって。血液を、巡らせて。

耐え生きることを、強いられる。

こんな世界で。唯一。

全てのものに、平等なのは。 「死」、だけだ。

だから、いとしい。

だから。憧れている。

それでも。






暗闇に、全てを手放すには。

夜はまだ。遠すぎる。






木洩れ日が。夕焼けの色を、帯びる頃。

鎮静剤による浅い眠りが、途切れたのだろう。隆一の瞼が上がり。

黒い虹彩が、わずかに覗いた。

標本にされた蝶が、まだ生きていることを。思い出す。

「よお。」

わざと無愛想な顔を作って、挨拶してやると。青ざめた唇は、弱々しく綻んで。喜びを表した。

「お見舞い、来てくれたの?」

「違えよ。お前みたいなバカの見舞いに、誰が来るか。」

「そうだね。」

口汚い悪態にも、隆一は。

真っ白な顔で。さらりと、笑う。

いつもより、ずっと。不確実さを、露呈した。

脆弱な。いのち。

「ちょっとね。失敗しちゃった。」

失敗。

その単語が、何を指すものであったのか。

生きることに。あるいは。

死ぬことに。

確かめることは、しなかった。

俺がすべきなのは、そんなことじゃない。

そんなことは。他人に任せておけばいい。

ようやく。わかったのだ。

隆一のために。

俺にしかできないことが、あるのだと。

ひとつには、なれないのだとしても。

共有できる、激痛が。

ここには、ある。






上着のポケットから取り出した、それを。

迷わぬ意志で。ベッドの上に、置いた。

侵されざる領域。

扉の、向こう側へと。

「やるよ。」

「なに。」

「お前には。必要なもんだろ。」

そう。

生きるため、には。

真新しい、小さなナイフは。

病室の窓から入り込んでくる、夕陽を。細い柄に受けて、輝いている。

その。すぐに移ろってしまいそうな。心許無い光に。

希望、という言葉が。俺の頭をよぎった。

そのせいだろうか。

今だけは。心から。優しく、笑えた気がする。

笑えていれば、いい。

そんな願いを。初めて抱きながら。

驚きに眼を瞠る、隆一の右手に。

屈折した手のひらに。そっと、ナイフを握らせてやる。

そして。

用意していた、祝福を。

息を潜めて、音にした。






ちっぽけなナイフの柄を。握り締める。

縋り付く。

瞼を閉じた、奴の笑顔は。崩れるような、泣き顔へと変わり。

ありがとう、と囁かれた。狂おしいほどの果敢無さを。

俺は。聞かなかったことにする。

きっと。

これまで息をしてきた、どの過程の。どの瞬間よりも。

大切だと。感じている。

届かぬ想いに。何度、失望を重ねても。

失うことの。恐怖に苛まれても。

あきらめることなど、できない。

それでいい。

隆一が、隆一で在り続ける。そのためなら。

俺は、なんだって。やってやる。

何度でも。言ってやる。

一年に。たった一度の、この日。

たとえ、お前が。

死ぬまで。そう、思えないのだとしても。






『ハッピーバースデイ』






夕空。木洩れ日。降り注ぐ、病室。

か細くやまない、慟哭に。耳を傾けながら。

俺は、ただ。隆一の涙が乾くのを。

待ち続けていた。






白いフリージアが、咲いた。

ぼくが、生まれた日。

だいすきだった。きみに、看取られ。

誰よりも、しあわせな。ぼくは










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