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□ 虹 の 堕 し 仔
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急に降りだした雨は、貯水槽でもひっくり返したかのような有様で。車に移動するまでのわずか数秒で、Tシャツもジーンズもじっとりと濡れて、身体に貼り付いた。
同じように、雨に打たれながら呆然と立ち尽くす隆一を見つけたのも。今となっては、あまりに無謀な運命の挑戦だったとしか思えない。
迎えに来る約束を、すっぽかされたのだと。訊いてもいないのに、奴は告げた。
助手席のシートは、ぐっしょりと濡れてしまったけれど。運転席も同じようなもんだったから、気にしないことにする。
どうせ。乾いてしまえば、跡形も無くなるのだ。
今日の午後。突然襲ってきた、豪雨のこと。
こんな日に限って、車を外に停めていた。バカな自分。
仕事場の外で。俯きながら雨に打たれていた、隆一。
その肌に貼り付いた、白いシャツ。
濡れた、助手席のシート。
奴がそこに居たという、痕跡のすべて。
「迎えに来るって言ったのに。ひどいよね。」
「ひどいな。」
「ほんと。」
ひどい。
小さなため息に混じって、消えた言葉。
隆一の言うひどい奴には、心当たりがあった。
隆一は、俺が何も知らないと思っている。
だから、俺も知らないふりをする。それでいい。
「下着まで、びしょびしょ。」
唐突に、そんなことを呟かれて。変な所で右折しそうになった。
それから先、奴が俺の部屋に立ち寄ることになったいきさつは。
今考えても。どうにも、よくわからないままでいる。
服だけ乾かさせてほしいという、ささやかな要望を。邪険にはできない。
「濡れたままだと、家族が心配するから。」
冷えた身体に、熱いシャワーを勧めると。奴は素直に従った。
風呂上がりには、自分のTシャツとスウェットを貸してやる。
若干丈が余るものの、ぶかぶかというほどでもない。
下着は、コンビニで新しいのを買った。
「ありがとう。」
屈託無くはにかんだ顔に、俺はわざと背を向ける。
「同居してるやつ、帰ってくっから。」
「わかってる。乾いたら、すぐ帰る。」
隆一の声は、落ち着き払っていた。
一方で。俺は、何を慌てているのだろう。
やましいことが、あるわけじゃない。帰って来たなら、隆一を紹介してやればいいだけのことだ。
でも、なぜか。それは、したくないと思った。
理由はわからなかった。考えたくなかった。
自分もシャワーを浴びて出てくると。隆一はタオルを肩にかけて、ぺたりと床に座り込んでいた。
まるで。店の外に繋がれて、主人の買い物が終わるのを待っている、小型犬のように。
つやつやと光る真っ黒な髪の先から、雫が落ちる。
必要だろうと貸したドライヤーは、まとめていたコードが解かれた様子も無く。傍らに転がっていた。
『乾いたら、すぐ帰る。』
濡れたままの髪を、見下ろして。数分前の台詞が、ぐるりと頭を駆け巡った。
ソファを勧めても、きっと断るだろう。
そんな予感が働いて、何も言わないことにした。
俺たちの間には。いつだって、沈黙が横たわっている。
嘘を、つくことを。
嘘を、つかれることを。
ひどく。恐れているかのように。
熱いコーヒーには、客の分にだけミルクを入れて、手渡す。
マグカップを受け取りながら、隆一は少し困ったような顔をした。
「気遣わなくていいのに。」
「遣ってねえよ。」
ぶっきらぼうに突き放して、隣に腰を下ろす。
「俺が、飲みたかっただけ。」
奴が相手だと。どうしても、こんな言い方しかできない。
しばらくの間。ふたり並んで、降りやまない雨の音に、耳を傾ける。
時折混じる雷鳴に。家の中は安全だとわかっていても、身体の表面が、かすかな緊張を帯びる。
「J。今日、何かあったの。」
「何も。」
即答したのは、かえって怪しかっただろうか。
新作の方向性を巡って、スタッフと対立した。
俺の目指すものでは、聴き手の心に届かないと言われているようで。腹が立った。
逆上した。
いや。
そうじゃない。
本当は。怖くなっただけだ。
彼らの、言う通りかもしれない。
自分のどこかに、そんな気持ちがあったからこそ。怒りを表出することで、不安を手なずけるしかなかったのだ。
自己欺瞞だ。思い出したくもない。
「お前こそ、何かあったんだろ。」
「さっきのことなら。大丈夫だよ。」
嘘だ。
あんなところで。びしょ濡れになっていやがったくせに。
「じゃあ。なんで、ここにいんの。」
咎めるように、詰め寄った。すぐ後で。
自分が、勝手な思い込みで動いていたことに気付き。愕然とした。
傷付いた隆一を。慰める、ふりをして。
慰めてほしかったのは。
ひとりになりたくなかったのは。
俺の方、だったのに。
「俺は。Jの隣に、居たいだけ。」
カップの中のコーヒーは。手をつけられないままに、冷めてゆく。
「Jには。本当の顔で、いてほしいだけ。」
淡々とした口調で、奴は俺を見据えた。
「弱いのは、悪いことじゃないと思うから。」
「強がってるってのかよ。俺が。」
隆一が何を言いたいのか、わからなかった。
俺を、糾弾したいのか。こんな回りくどい言葉で。
それとも。哀れんでいるだけ。
「弱いのは、お前だろ。」
淋しいのは。
「そうだよ。」
雨音が、遠のく。
「俺も弱いから。Jのこと、よくわかる。」
淋しいから。
「守りたいって。思う。」
それきり口をつぐんだ、隆一の頬は。心なしか、赤みを帯びていた。
守りたい。
そんなことを、他人に言われたのは。はじめてだ。
でも。なぜだろう。
その言葉を。俺はずっと、待ち望んでいたような気がする。
何よりも。求めていたような、気がする。
そんな、子供じみた感情を振り払おうとするみたいに。バカな台詞が、口を突いた。
「お前、変。熱あんじゃねえの。」
「無いよ。」
「だって。顔、赤えもん。」
「そんなことない。」
「診てやる。」
「いやだ。」
頼りない抗議の声は、最初から却下して。奴の額に、手を伸ばした。
きっと俺の顔も。いつもより、少し赤い。
眼にかかる前髪をかきあげて触れると、瞳の黒さが露になる。
動揺を悟られぬよう。医者にでもなったつもりで、機械的に振る舞った。
隆一の額は、ひどく熱かった。
ごくりと、生唾を嚥下する音が聞こえる。
「扁桃腺。」
呟きながら、白い喉元を両手で包む。
まるで。これから、首を絞めようとする。
あるいは。
キスでも、しようとしているみたいだ。
隆一は、ただ黙って。眉を寄せて。
細められた眼の奥を、怯えた色で潤ませて。
頸動脈の辺りに置いた指先へと。恐ろしく速い拍動が、直接訴えてくる。
赤く染まった頬の色に。皮膚の下を走る、血液の熱さを思い描いた。
もし。このまま、首を絞めたら。
キスを、したら。
お前は俺を、二度と見なくなるのだろうか。
苦しくて、偽りきれなくなった。
その。眼差しで。
指先に、力を込める。
反射的に、首の筋肉が硬く強張る。
濡れて、胸に貼り付いた。白いシャツを、思い出す。
あの時。俺が、見ていたのは。
頬にずらした手で顔を包み込み、そのまま唇を寄せると。
隆一は。何もかも受け容れるかのように、瞼を閉ざした。
人差し指の先が、ぬるい雫に触れてはじめて。奴が涙を流していることを、知った。
やめたくないから。眼を閉じたままでいた。
今を失ったら。
もう二度と。こんな風には、触れられない。
不意に、灯りが消える。
停電かもしれない。
地に跳ね返る、雨の音。
幼い頃の記憶。
子守唄。
柔らかな、ぬくもり。
抱きしめた身体は、熱を持って俺を迎え入れた。火傷しそうなほど熱いくせに、震えていた。
隆一の手のひらが、背中に回される。心臓の、ちょうど裏側。
重なり合う鼓動に、不思議と心が安らいでゆくのを感じる。
もうすぐ、あいつが帰って来る。
昨日恋人とセックスをした、同じ部屋で。俺は隆一と、こんなキスをしている。
なんのために。
痛いから。
ひとりは。とても、淋しいから。
帰宅した恋人は、寄り添うように並んだマグカップを見て。誰か来てたのと尋ねた。
「ともだち。」
嘘をついた後で、溢れ出す。
どしゃ降りの雨の中、振り向いた。はかなげな笑顔。
俺のほしがる言葉をくれた。まっすぐな眼差し。
温かく包む。手のひらの感触。
この腕の中に居た。隆一の、すべて。
あいつ。母親に、似てるんだ。
唇を舐めると。懐かしい、血とミルクの味がした。
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