IR

□ファースト・ヘヴン
1ページ/1ページ








井上さん、と名前を呼ばれ。診察室の白いドアを開けると。

白衣を着て、椅子に腰掛けた君が。無愛想に「どうぞ。」と呟き。

黒ぶち眼鏡の奥から、じろりと俺を睨み上げた。






「隆ちゃん、何してんの。」

こんなところで。

当然のごとく、俺が問い尋ねても。隆一は、なんの反応も示さない。

あくまでも、事務的に。患者用の丸椅子を勧めるだけだ。

首にかかったネームプレートには、確かに君の苗字が見て取れる。

なんだ。これ。

何もかも。真っ白な、部屋。

白衣に。眼鏡に。机の上の、カルテ。

そして。隆一。

ひょっとして。どっきりか、何かか。

「今日は、どうされました。」

驚きのあまり、呆然としてしまって。何も言えずにいると。

隆一、じゃない。『かわむら先生』は。少しだけ、訝しげな眼差しを向けてくる。

レンズの向こうの、黒い虹彩は。ぞっとするほど、冷徹な色をしていて。

君を、君たらしめている。どんな温かさも伝えてはこない。

そのことに気が付いて。ようやく、俺は。

目の前の医者が、君じゃない。単なる人違い、他人の空似であったことに。渋々ながらも、納得する。

いや。

納得、するしかない。

それにしても。

君じゃないことが、確かだとは言え。

これから俺を診察しようとしている人間は、どう見ても。間違い無く、君そのものの姿形をしているのだから。

なんとも、おかしな心持ちになる。

君と同じ顔で。俺のことなんか、知らない。今初めて会った、みたいな反応をされるのは。正直。ちょっとした、ショックだったし。

はっきり言って。ものすごく、落ち着かない。

今日。俺がここを訪れたのも。他でもない。君のことが、原因みたいなものだったりするから。

腑に落ちない部分を、多々残しつつも。促されるまま、椅子に座ると。『かわむら先生』は。

もう一度。確認するように。

俺の本名を。フルネームに、『さん付け』で呼んだ。

「今日は、どうされました。」

君と全く同じ。けれど、ひとかけらの温もりも感じられない。

無機質で、美しい。その、声。






「先生は、こんな風に思ったことないですか。」

「なんでしょう。」

「ある人に抱く特別な感情を。当然それと認めるべきなのに、認められない。」

「つまり。嫌悪感を抱いている自分への嫌悪感。もしくは、好意を抱いている自分への罪悪感、といったものですか。」

「近いです。でも、少し違う。」

「どんな風に。」

「殺したいと。思ってしまうんです。」

「誰を、ですか。」

あなたを。と、言いそうになって。

寸でのところで、口を噤んだ。

違う。

この人は。君じゃ、ない。

「好きだと想っている相手・・・いえ。当然、そう想わなければならない。そう想うべき人を、です。」

「そうですか。」

先生の口調は、至極あっさりしたものだった。

「具体的に。どんなことを考えます?」

「口に出すのも、憚られるようなことです。」

「今は、話したくありませんか。」

「いいえ。話させてください。」

「私に対して、無理をする必要は無いんですよ。」

「無理はしてません。俺は、聞いてほしいんです。」

あなたに。

かわむら先生の眼が、かすかだけれど。

初めて優しく。細められた気がした。






始まりは、単純で。自然で。

きっと。疑う余地すら無かった。

俺は、君のことを。好きになったんだって。

想いを伝えるつもりなんて、無かったけれど。

すぐ傍で。ずっと、見守り続けてゆけたら。それだけで。

幸せなんじゃないかって。

そんな気が、していた。

それなのに。

一体、いつからなんだろう。

君を、殺したい。

なんて。

そんな妄想に。とり憑かれるようになったのは。

来る日も来る日も。頭の中で。君を殺める日々が続いて。

大きく見開かれた、君の瞳から。涙が零れ落ちる様を。

とてもきれいだと。憧れるようになって。

「俺は。狂っているんです。」

「どうして。そう、思うのですか。」

「だって、こんなこと。まともな感情のはずがない。」

そうだ。

誰よりも。幸せになってほしいはずの、人間を。

そう、望むべき人間を。

殺したいと、願うなんて。

俺は。頭がおかしい。

そうとしか。考えられない。

なのに。

「いいえ。」

先生は、きっぱりと。俺が導こうとする結論を、否定した。

「あなたの中にある感情は、狂気とは言いかねます。」

「じゃあ。なんなんですか。」

「それは。独占欲と言うのですよ。」

「独占欲?」

「そう、あなたは。心の奥底では、『彼』を。自分一人のものにしたいと、願っている。」

「まさか。」

「だからこそ。自分の思い通りにならない。自分だけを見てくれない。自分の望む表情だけを、してくれない。『彼』に。殺意に似た感情が、芽生えるのではありませんか。」

「もし、そうだとしても。それは、やっぱり。狂っているのと同じではないんですか。」

「違いますね。」

かわむら先生は。両手で眼鏡をはずすと。

そっと。机の上に、置いた。






「だって、それは。恋だから。」






立ち上がり、俺の傍に歩み寄ってくる。

君の顔をした、白い影が。

まるで、蜃気楼のように。揺らめいて見える。

潤んだ瞳。熱に、溶かされたみたいに。

これは。まぼろしなんだろうか。

夢、なんだろうか。

だとしたら。

出口は。どこだ。

「苦しいの?」

「苦しいよ。」

「楽に、なりたい?」

「なりたい。」

楽に。

ぼんやりと、応える。俺の膝の上に。

跨って、君は。

俺の両手を、自らの首筋に導く。

どくどくと。速い脈を刻む。

熱くて、白い喉を。無防備に、曝しながら。

「俺のこと。欲しい?」

囁きは、甘く。

せがむように、濡れて。

「ほしいよ。」

ほしい。

今、ここにある。

君の。心、身体。ぜんぶ。

俺だけの。ものに。

したい。

他の誰かに。犯されるくらいなら。

「いいよ。」

ころして。






もっと。つよく。

だいて。






俺は、こんな風に。

微笑みながら、死ぬことなんて。

きっと。できない。






待ち合わせの店に着くと、隆一は。テラスで本を読みながら、アイスティーを飲んでいた。

無言のまま、傍らに立ち尽くす。俺に気付いて。

ちょっとびっくりしたみたいに。目を丸くして、顔を上げる。

「遅かったね。」

「ごめん。ちょっとね。」

向かい側に腰掛けて。なんでもないことみたいに。さり気無く。

「病院、寄ってたから。」

たちまち、君の眼差しが。心配そうな色を帯びる。

「具合、悪いの?」

ああ。

そうか。

この眼差しを。自分だけに向けさせておきたい。なんて。

そんな願望を。彼は。

恋だと。笑ったのか。

気付かなかった。

「大丈夫。たいしたことないよ。」

そう、答える。

気分は、不思議なくらい。晴れ渡って。

「良い先生に。診てもらえたから。」

だから、君も。

笑えば。いいんだ。

「そう。よかったね。」

安心したように崩れる。穏やかな微笑みも。

涙も。歓びも。怒りも。哀しみも。

君がこれから触れるだろう。感情と、感覚の。何もかも。

全部。俺だけのものにしたい。

それが、かなわないなら。

もう。君なんか。

いらない。






何もわからないまま。無邪気な笑顔を浮かべる。

君の。白い首筋には。

俺が贈った、殺意の痕が。

君が。俺だけのものだという。欲望の証が。

首飾りのように、刻まれて。

眩しかった。






それは。

生まれて初めて。恋に堕ちた日の。

かけがえのない。記憶。









[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ