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□ファースト・ヘヴン
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井上さん、と名前を呼ばれ。診察室の白いドアを開けると。
白衣を着て、椅子に腰掛けた君が。無愛想に「どうぞ。」と呟き。
黒ぶち眼鏡の奥から、じろりと俺を睨み上げた。
「隆ちゃん、何してんの。」
こんなところで。
当然のごとく、俺が問い尋ねても。隆一は、なんの反応も示さない。
あくまでも、事務的に。患者用の丸椅子を勧めるだけだ。
首にかかったネームプレートには、確かに君の苗字が見て取れる。
なんだ。これ。
何もかも。真っ白な、部屋。
白衣に。眼鏡に。机の上の、カルテ。
そして。隆一。
ひょっとして。どっきりか、何かか。
「今日は、どうされました。」
驚きのあまり、呆然としてしまって。何も言えずにいると。
隆一、じゃない。『かわむら先生』は。少しだけ、訝しげな眼差しを向けてくる。
レンズの向こうの、黒い虹彩は。ぞっとするほど、冷徹な色をしていて。
君を、君たらしめている。どんな温かさも伝えてはこない。
そのことに気が付いて。ようやく、俺は。
目の前の医者が、君じゃない。単なる人違い、他人の空似であったことに。渋々ながらも、納得する。
いや。
納得、するしかない。
それにしても。
君じゃないことが、確かだとは言え。
これから俺を診察しようとしている人間は、どう見ても。間違い無く、君そのものの姿形をしているのだから。
なんとも、おかしな心持ちになる。
君と同じ顔で。俺のことなんか、知らない。今初めて会った、みたいな反応をされるのは。正直。ちょっとした、ショックだったし。
はっきり言って。ものすごく、落ち着かない。
今日。俺がここを訪れたのも。他でもない。君のことが、原因みたいなものだったりするから。
腑に落ちない部分を、多々残しつつも。促されるまま、椅子に座ると。『かわむら先生』は。
もう一度。確認するように。
俺の本名を。フルネームに、『さん付け』で呼んだ。
「今日は、どうされました。」
君と全く同じ。けれど、ひとかけらの温もりも感じられない。
無機質で、美しい。その、声。
「先生は、こんな風に思ったことないですか。」
「なんでしょう。」
「ある人に抱く特別な感情を。当然それと認めるべきなのに、認められない。」
「つまり。嫌悪感を抱いている自分への嫌悪感。もしくは、好意を抱いている自分への罪悪感、といったものですか。」
「近いです。でも、少し違う。」
「どんな風に。」
「殺したいと。思ってしまうんです。」
「誰を、ですか。」
あなたを。と、言いそうになって。
寸でのところで、口を噤んだ。
違う。
この人は。君じゃ、ない。
「好きだと想っている相手・・・いえ。当然、そう想わなければならない。そう想うべき人を、です。」
「そうですか。」
先生の口調は、至極あっさりしたものだった。
「具体的に。どんなことを考えます?」
「口に出すのも、憚られるようなことです。」
「今は、話したくありませんか。」
「いいえ。話させてください。」
「私に対して、無理をする必要は無いんですよ。」
「無理はしてません。俺は、聞いてほしいんです。」
あなたに。
かわむら先生の眼が、かすかだけれど。
初めて優しく。細められた気がした。
始まりは、単純で。自然で。
きっと。疑う余地すら無かった。
俺は、君のことを。好きになったんだって。
想いを伝えるつもりなんて、無かったけれど。
すぐ傍で。ずっと、見守り続けてゆけたら。それだけで。
幸せなんじゃないかって。
そんな気が、していた。
それなのに。
一体、いつからなんだろう。
君を、殺したい。
なんて。
そんな妄想に。とり憑かれるようになったのは。
来る日も来る日も。頭の中で。君を殺める日々が続いて。
大きく見開かれた、君の瞳から。涙が零れ落ちる様を。
とてもきれいだと。憧れるようになって。
「俺は。狂っているんです。」
「どうして。そう、思うのですか。」
「だって、こんなこと。まともな感情のはずがない。」
そうだ。
誰よりも。幸せになってほしいはずの、人間を。
そう、望むべき人間を。
殺したいと、願うなんて。
俺は。頭がおかしい。
そうとしか。考えられない。
なのに。
「いいえ。」
先生は、きっぱりと。俺が導こうとする結論を、否定した。
「あなたの中にある感情は、狂気とは言いかねます。」
「じゃあ。なんなんですか。」
「それは。独占欲と言うのですよ。」
「独占欲?」
「そう、あなたは。心の奥底では、『彼』を。自分一人のものにしたいと、願っている。」
「まさか。」
「だからこそ。自分の思い通りにならない。自分だけを見てくれない。自分の望む表情だけを、してくれない。『彼』に。殺意に似た感情が、芽生えるのではありませんか。」
「もし、そうだとしても。それは、やっぱり。狂っているのと同じではないんですか。」
「違いますね。」
かわむら先生は。両手で眼鏡をはずすと。
そっと。机の上に、置いた。
「だって、それは。恋だから。」
立ち上がり、俺の傍に歩み寄ってくる。
君の顔をした、白い影が。
まるで、蜃気楼のように。揺らめいて見える。
潤んだ瞳。熱に、溶かされたみたいに。
これは。まぼろしなんだろうか。
夢、なんだろうか。
だとしたら。
出口は。どこだ。
「苦しいの?」
「苦しいよ。」
「楽に、なりたい?」
「なりたい。」
楽に。
ぼんやりと、応える。俺の膝の上に。
跨って、君は。
俺の両手を、自らの首筋に導く。
どくどくと。速い脈を刻む。
熱くて、白い喉を。無防備に、曝しながら。
「俺のこと。欲しい?」
囁きは、甘く。
せがむように、濡れて。
「ほしいよ。」
ほしい。
今、ここにある。
君の。心、身体。ぜんぶ。
俺だけの。ものに。
したい。
他の誰かに。犯されるくらいなら。
「いいよ。」
ころして。
もっと。つよく。
だいて。
俺は、こんな風に。
微笑みながら、死ぬことなんて。
きっと。できない。
待ち合わせの店に着くと、隆一は。テラスで本を読みながら、アイスティーを飲んでいた。
無言のまま、傍らに立ち尽くす。俺に気付いて。
ちょっとびっくりしたみたいに。目を丸くして、顔を上げる。
「遅かったね。」
「ごめん。ちょっとね。」
向かい側に腰掛けて。なんでもないことみたいに。さり気無く。
「病院、寄ってたから。」
たちまち、君の眼差しが。心配そうな色を帯びる。
「具合、悪いの?」
ああ。
そうか。
この眼差しを。自分だけに向けさせておきたい。なんて。
そんな願望を。彼は。
恋だと。笑ったのか。
気付かなかった。
「大丈夫。たいしたことないよ。」
そう、答える。
気分は、不思議なくらい。晴れ渡って。
「良い先生に。診てもらえたから。」
だから、君も。
笑えば。いいんだ。
「そう。よかったね。」
安心したように崩れる。穏やかな微笑みも。
涙も。歓びも。怒りも。哀しみも。
君がこれから触れるだろう。感情と、感覚の。何もかも。
全部。俺だけのものにしたい。
それが、かなわないなら。
もう。君なんか。
いらない。
何もわからないまま。無邪気な笑顔を浮かべる。
君の。白い首筋には。
俺が贈った、殺意の痕が。
君が。俺だけのものだという。欲望の証が。
首飾りのように、刻まれて。
眩しかった。
それは。
生まれて初めて。恋に堕ちた日の。
かけがえのない。記憶。
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