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□偽人魚【いつわりにんぎょ】
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俺の、恋人は。

その美しい唄声を。奪われてしまった。

世界でいちばん、かわいそうな。

人魚だ。






もう。半年になる。

隆の唇から。その甘やかな唄声が、紡がれることが無くなって。

それは、本当に。ある日、突然の出来事で。

やり慣れた、日常の動作のように。当たり前の、自然さで。

君は。唄うことを、やめてしまった。

なんらかの、障害で。唄えなくなってしまったのか。

自らの意志で。唄わなくなって、しまったのか。

真実は、きっと。隆にしか、わからない。

心療内科の医者は。精神的ストレスによるものだ、なんて。もっともらしい診断を、下したけれど。

俺には、それが。的を射ているとは、思えない。

何よりも、当の本人が。

治療は、必要無いと。どんなカウンセリングも、拒否した上に。

笑って。

「唄えなくなっただけで。しゃべれなくなったわけじゃないし。」

と。

その言い方が、強がっている風じゃなくて。本心から、そう思っているように聞こえたせいで。

Jなんかは。本気で、憤慨していた。

あいつにとって、音楽は。その程度の存在に過ぎなかったのか、と。

Jは、激怒していたけど。

違うと、思う。

隆は。きっと。

見つけたんだ。

唄うことよりも。もっと。

絶対的に。大切な、存在を。

だから。

隆にとって、唄は。もう、必要無くなったんじゃないかと思う。

それが、意識的にしろ。無意識にしろ。

この現象を、引き起こした。原因であるような気がして、ならない。






周囲の雑音から、隆を守るために。

俺は、小さなコテージを買った。

隆が、好きな。海の見える場所。

潮の匂いが、感じられる場所。

マスコミは、あること無いこと。面白おかしく書き立てて。

随分。隆を、傷付けた。

スタッフや、メンバーは。味方ではあったけれど。

唄えなくなった、唄い手に。どう接していいのか、わからないみたいで。

まるで。腫れ物に触るような、扱い方をしていたから。

そういう、不自然な。全てのものから。

俺は、隆を。守りたかった。

これまで、俺は。隆に告白したことさえ、無かったけれど。

一緒に、暮らそうと。打ち明けた時。

君は。にっこりと、微笑んで。

嬉しい、と。頷いた。

この不完全な、世界から。音も無く、墜落するみたいに。

俺と、隆。ふたりだけの生活が。

ひっそりと。始まったのだ。






全てのものから、隆を守るため。

この家には。電話も、テレビも。インターネットも、無い。

事実無根の誹謗中傷を。隆が決して、目にすることの無いように。

仕事の上で必要だから。俺は携帯を持ってるけど。

隆の電話は、とっくに解約させた。

隆には、絶対。独りで、家から出ないように。言ってある。

万が一。心無い奴等に、見つかりでもして。

隆が傷付けられてしまう可能性を、避けるためだ。

外から鍵をかけたりは、しなかったけど。

約束が、破られることは。無かった。

「なんだか、誘拐みたい。」

それとも。監禁、かなあ。

たちの悪い冗談を、口にして。くすくすと、笑う。

まるで。いたずらを覚えたばかりの、子供みたいに。

あどけなさの残る眼で、俺を捕らえるのに。

次の瞬間には。

ふと。真顔になって。

「杉ちゃんのバイオリン、聴いたら。また、唄えそうな気がする。」

隆が、望むことなら。

俺は。なんだって、してやれる。

仕事以外に、外出することも無く。

付き合っていた友人達も。飲み仲間も。みんな、ほったらかしにして。

来る日も来る日も。隆の前で。

俺は、楽器を奏でた。

隆は、いつも。熱心に、耳を傾けて。

楽しい曲では、楽しげに。

哀しい曲では、哀しげに。

でも。最後には。

必ず。こう、言う。

「ごめんね。今日も、唄えなくて。」

いつだって、それは。泣き出しそうな、顔に見えて。

「いいんだよ。」

俺は。ありふれた言葉しか、かけてやれなくて。

唄が無くたって。隆は、隆だよ。

そんな、心からの想いを。伝えてあげたいのに。

どうして。

うまく、言えないんだろう。

今は。

こんなに、近くにいる。君なのに。

「愛してる」の、言葉一つも。夢になりそうで。

怖いなんて。

そんな、ふたりだった。

はずなのに。






そう。

手を繋いだことも無い。ふたりだった、はずなのに。

この小さな世界で。一緒に、暮らすようになってから。程無くして。

俺と隆は。はじめて、身体を重ねた。

そんな時。確認や、承諾の言葉なんか。なんにも、必要無くて。

信じられないかもしれないけれど。本当に、自然に。

気が付いたら。

唇が。触れていたんだ。

「ねえ。子供の頃の話、聞かせて。」

あの夜。眠りに落ちる前。

そうせがまれて、幕を開けた。俺の話に。

隆は、たくさん笑って。

俺も。たくさん。たくさん、笑って。

だから。その夜は。

隆の、笑顔と。

腕に抱いた。頼りない、肌の温もりしか。

記憶に、無い。

次の日。俺は。

古い小さなベッドを、二つ捨てて。

新しい、大きなやつを。一つ、買った。

俺たちの、触れ合いは。

セックスと呼べるほど。激しい行為じゃなかったけれど。

お互いに。手や唇や。舌で、触れ合って。

からだ全部を。ぴったりと、くっ付けて。

少しだけ、速い。隆の鼓動と。

感じてる、声を聞いて。

俺も。気持ち良くなって。

隆は、俺のことを。えっちだなんて、言うけれど。

俺を、こんな風にしてしまうのは。君だけ、なんだから。

だから。隆の身体の方が。俺よりよっぽど、えっちなんだと思う。

そんな。ちょっと、いやらしいけれど。じゃれ合いの延長みたいな、遊びも。

時々は。するようになって。

いつの間にか。

こんな日々が、終わりませんように。

いつまでも。続きますように。

ただ、それだけを。

俺は願って。

生きるように、なっていた。






隆が回復することを、望む気持ちも。

どこか遠くへ。置いてけぼりに、してしまった。








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