JRA

□八月の轢屍体
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Jくんのこと。

あいしてる。






「なに言ってんの。お前。」

「だから。あいしてる。」

隆一は、もう一度。

今度はまるで、発声練習でもするように。一文字一文字、ゆっくりと繰り返した。

「やめろよ。そういうの。」

なんだか寒気がして。

煙草の熱を求めた、俺の指先は。行き場を失った。

数ヶ月前に、やめたのだ。

そんなことも、咄嗟に忘れるくらい。

俺は、動揺していた。

何も身に着けていない、その姿で。俺を見つめる隆一の瞳は、静かすぎた。

そのことが。一層不気味に、俺を追い詰める。

苛まれる。

セックスの後の、戯れ。

そんな風に楽観的な考えは、とてもできなかった。

俺には、それが。たった五文字の、その言葉が。

『殺してやる。』

そう、聞こえたからだ。

「悪い・・・もう、帰らねえと。」

情けなくも。思わず口を突いて出た、次の瞬間。

短く切り揃えられた爪が、腕に喰い込む。

「なんで?まだ、いいじゃん。」

しっかりと絡み付いた、形の良い指先。

青白い肌。

振りほどいてしまえばいい。

どうせ、誰も救えない。

何も救えない。

人の手なんて、脆い。

隆一もまた、例外ではない。

神の手なんかじゃない。

拒絶できなかった。

自分が、厭になる。

あの時も、今も。

犯していながら。俺は、ずっと。

奴に、犯されていた。

「今日のJくん。すごかった。」

「何、それ。」

「ストレス、溜まってた?」

答えず、いると。隆一の爪はますます、俺の皮膚に埋ずまった。

じりじりと、鈍い痛みが迫る。

「奥さん、元気?」

微笑みながら、俺を見上げる。

不快感より、怒りを喚起する。

そんな、顔だった。

醜い。

「いい加減、離せよ。」

ぶん殴りたいくらい頭にきたおかげで、ようやく声にできた。

隆一は。

予想に反し。あっさりと、その手を離した。

「痛くして、ごめんね。」

爪の痕、残っちゃうね。

そう言って。

赤く滲んだ箇所を、慈しむように辿る。

うっすらと浮かび上がる、半月状の刻印は。『傷』と表現するには、あまりに浅い。

数分と経たないうちに、消え失せてしまうだろう。

ただ、疼くような痛みだけが。

いつまでも、いつまでも。続いてゆく。

終わりが無い。

いや。

既に、終わっているのかもしれない。

互いを思いやることさえ、できなくなってしまった。今。

こいつは。

たった一つを、俺に望んでいる。

逃げ出すための、理由。

絶望の果てに、見つけた。

まがい物の希望。

「むかついたら、殴っていいよ。」

犯していいよ。

殺して、いいよ。

殺して






思い通りに、ならないのなら。

君なんか、いらない。

信じてたのに。

ともだちだと、思ってたのに。

早く、死ねよ。

裏切者が。






本当の、隆一を。

愛することのできる人間なんて。いるのだろうか。

本当の声に。

耳を傾け、そして。

受け容れる。

いたとしても、それは。

俺じゃない。

所詮、俺は。

凡庸な、人間だ。

だから。淋しい。






「もう、帰らなきゃね。」

別れの言葉をなぞる、隆一の。

肩に手をかけ、シーツの上に押し倒した。

硬いホテルのベッドが、ぎしりと歪んだ音を立てる。

「欲求不満なの?」

「ああ。」

はかなく貼り付いた笑みに、性的な衝動なんて微塵も起こらなかった。

ただ。

他に、方法が無いからだ。

託された願いを、叶えてやることはできない。

愛されたいのは、俺も同じ。

服従を、嫌悪しているくせに。

切望する。

支配されたい、と。

獣みたいに犯して。

愛してほしい。

矛盾に翻弄され、苦しんでいる。

見抜かれていた。だからこそ。

隆一は、俺を選んだ。

正確には。

奴にとり憑いている、亡霊が。

「あいしてる。」

言い慣れない台詞は、ひどく棒読みになってしまったけれど。

隆一は、笑ってくれた。

嬉しそうだった。

「俺も。」

そうして。裸のまま、重なり合う。

支配されたいのは、俺も同じ。

いつか。

犯してほしい。

めちゃくちゃに。そう。

嘔吐するくらい。

深く。






きっと。涙で縛り合うより、ずっと心地良い。

朝焼けに染まる白い肌は、幼い頃の記憶を呼び覚ます。

道端に転がる、轢死した仔猫。

ちぎられた、前脚。

「どうでもいいよ。」

何もかも。

血まみれになって。

眠るんだ。









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