JRA

□キ ミ ノ ヨ ル
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隆一が死ぬ夢を見た。






その屋上には柵もフェンスも無い。

冷たそうな灰色の床に転がり、隆一が眠っている。

胎児か焼死体のように身体を丸めて、ぴくりとも動かない。

華奢な身体に纏わり付く真っ白なシャツは、死装束のようにも見える。

不意に吹いた風が長い前髪を揺らし、薄く開いた隆一の眼。その眦から涙が一粒零れて、血の気の無い頬を伝った。

そんな感情の塊であるところのぬるい雫とは相反して、瞳の色は塗り潰されたように黒い。

一筋の光も映さない、どんな感傷も許さない深い闇。

ゆっくりと身体を起こし、何も無い空白へと足を進める。

躊躇も後悔も哀しみもそこには無い。

それが当たり前のように、隆一は屋上の縁に立つ。

一時、静かに空を仰いで瞼を閉じた後

その姿は空白の向こうへと消えた。






目覚めると、自室のベッドの上だった。

全身がぐっしょりと濡れていて、ひどい汗をかいていることに気付く。長い階段を一気に駆け上がった時みたいに呼吸が覚束ない。

全く現実感の無い夢だった。いや、所詮夢なのだから現実感など無くて然るべきなのかもしれないが、まるで映画か何かを見ているような。とにかく俺はその世界のどこにも存在していなくて、スクリーンを隔てたこちら側で、ただ隆一が死ぬのを見つめていた。

現実感なんてこれっぽっちもないくせに、目覚めた瞬間、得体の知れない不安が俺を襲った。

今すぐ、隆一が生きていることを確かめたい。

思うより早く携帯電話に手が伸びて、俺の不快な感情が隆一の携帯を鳴らす。

しばしのコール音は留守電を告げる事務的な女の声によって途切れた。

不安が増大してゆく。

何度も隆一の携帯を鳴らした。

仕事中だとか運転中だとか、出ない理由はいくらでもあるはずなのに、今はそれが考えられない。あの夢が現実の続きのような気がして、今にも隆一があの空白の向こうへ足を踏み出してしまいそうな、そんな気がして。ただひたすら頭が痛い。心臓がぶれる感覚に吐き気がする。

生きている隆一の姿が見たい。

とりあえず電話をしてはみたものの、たとえ声を聞いたところで安心などできはしないのだ。その姿を確認するまでは。

携帯と財布だけポケットに突っ込んで、俺は部屋を飛び出した。

目指す先は隆一のマンションだ。

あのマンションの屋上には、柵もフェンスも無い。






たまの休みに取るものも取りあえず、寝起き丸出しの、ままならない姿でアクセルを踏む、俺はおかしい。

隆一が死ぬはずは無い。

あんなに健康的になって、穏やかに微笑んで、優しい唄を唄う。光の中に住んでいるような奴が、どうして死ぬ必要がある。

光。

夢の中の隆一は、そんな彼のパブリック・イメージとは対極にあった。言うなればまるで別物。それでも確かに、あいつは隆一だった。

死んだような眼をして。

無表情なのにどこか愁いを帯びた姿態は、純粋に美しかった。

隆一には、そんな表情こそが似合う。俺は、隆一のそんな顔が好きだった。

そう、だからこそ

無性に、死んでほしいと思う時がある。

隆一の笑顔。

俺の大嫌いなものだ。

健康的で、穏やかに微笑んで、優しい唄を唄う。そんなあいつはいらない。俺の望むものじゃない。

隆一の笑顔を俺は望んでいない。

俺の望まない顔をする隆一が憎い。

このまま俺の期待を裏切って笑い続けるなら。今、死んでほしい。これ以上、その健やかな笑顔を見ていたくない。

お前は傷付くために生まれたのに。哀しみと絶望を唄うために生まれてきたのに。

あの夢は、俺の願望なのだろうか。

今俺が車を走らせているのは隆一を救いたいからではなく、空白の先へ踏み出したその結末を、夢の続きの残骸をこの目で確かめたいからなのだろうか。

隆一が死んでしまえば、俺の好きなあの表情も、二度とは見られないのに。






マンションの前に車を放置してエレベーターに駆け込もうとした俺が見たのは、「メンテナンス中」と書かれた札だった。

舌打ちが漏れる。こんな大きなマンションで、全てのエレベーターがメンテ中なんてことがあるだろうか。

いよいよ夢の続きを見ているような心持ちになるが、一つ違っているのは、今は自分自身もスクリーンの「あちら側」に存在しているということだ。

仕方が無いので、階段を使う。

コンクリを蹴るスニーカーの足音は妙に軽く響き、それが一層神経を逆撫でする。

衝動に任せ必死で駆け上がっているうちに、訳がわからなくなってくる。

息が上がって、太腿が鉛のように重い。ここが何階なのか、視界がぼやけてよく見えない。

ただひたすら、祈る。

待っていてくれ、と。

俺が辿り着くまで、飛び降りずにいてほしい。屋上の縁に立って、真っ黒な冷たい眼で振り向いて、風に乱される髪を鬱陶しそうにかき上げて、こんなところまで来てしまった俺を嘲笑ってほしい。

抱き締めることも、背中を押すことも、全部俺に決めさせてほしい。

愛しさと憎しみなんて、結局一緒だ。隆一はきっと、そのことに気付いていた。

俺がどう思っているかなんて。多分ずっと前から、あいつにはわかっていたのだ。






ジーンズのポケットに捩じ込んだ携帯が突然鳴った時、幻聴のようなそれに奪われた意識が足を縺れさせ、不様にも俺は踊り場の隅に激突した。

着信が隆一であることに驚いて通話ボタンを押すも、声が出ない。

言ってやりたいことは山のようにあったはずなのに。酸素を取り込み吐き出そうとする最低限の生命維持活動で、俺の呼吸器は手一杯なようだ。

隆一の、およそこの場に似つかわしくない甘ったるく柔らかな声だけが、脳を揺らす。

「さっき、電話くれた?」

ああ、と一言だけ返す。やっとのこと出た声は掠れきっていて、ほとんど吐息に近かったが隆一にはちゃんと伝わったようだった。

「今、どこにいる?」

搾り出すように問うと、電話の向こうに沈黙が落ちた。

潜められた息遣いに鳥肌が立つ。恐怖とも期待ともつかない興奮で、全身が満たされてゆく。

夢の中の隆一の表情は反芻する度に美しさを増し、俺の中だけで残酷に凍りつく。

なんて快感なんだろう。

本当に。美しくて醜くて。いとおしくて、疎ましい。

最後の階段を昇りきるために、ふらつく足を無理矢理持ち上げた。

電話はいつの間にか切れていた。






あのドアを開けたら隆一はいるだろうか。

どんな顔で俺を見るだろうか。

無機質な頬を伝うぬるい涙は、どんな味がするだろうか。

そこにいるのは、隆一ではないのかもしれない。

俺が望む表情だけを見せるとしたら、それはもはや、あいつではない何かだろう。






軋んだドアの隙間から漏れた、刺すような光が俺の目を焼く。






その笑顔を殺した。何度も何度も。繰り返し。

それでも喪えないのは、希望を捨てることができないから。今は実在すら不確かな、彼の中にある漆黒の闇にいつまでも縋り付いているから。

何も考えず、ただ無邪気に、ありのままを愛してあげられたら。大嫌いな笑顔も甘い声も全部飲み込んで、抱き締めてあげられたらよかったのに。

それができない、自分本位で身勝手で、醜いこの両腕を、必死に伸ばした。






哀しいほど不透明で美しい、俺が求めてやまない、お前の中の夜と一つになるために。









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