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□シュレディンガーは、そらを知らない。
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「ありがとう、いのちゃん。助かった。」

助手席で。屈託無く笑う、君を見て。

ため息をつかずにいろ、と言う方が。無理ってものだ。

「ごはんだけって、言ったのに。あの人、すごいしつこくて。」

隆一は。心底、気色悪そうに。

鳥肌でも立ったのか。長袖シャツの上から、肘下を。これ見よがしにさすっている。

そこまで思うなら、始めから。誘いになんか、乗らなければいいのに。

どんだけ、食い意地がはってるのか。ほいほい、着いて行くなんて。

何十回も、思ったことだけど。あえて、言おう。

バカ、みたいだ。

「いのちゃんが、来てくれて。よかった。」

そんな風に、言われても。

ちっとも。嬉しくなんかない。

むしろ。

恨めしそうに見送っていた、さっきの 「紳士」 に。一抹の同情を、禁じ得ない感じだ。

「隆ちゃんさ。こういうこと、もうやめたら?」

「こういうことって?」

「だから。誰にでも、思わせぶりな態度とること。身体が、もたなくない?」

「からだって・・・いのちゃん、やらしい。」

いや。そういう意味じゃないんだけど。

否定しようとしたものの。隆一の、わざとらしい。意地の悪い笑みを見たせいで。

あっけなく。反論の気概も、そがれてしまった。

「いのちゃんでも。えっちなこと、想像するんだ。」

君は。

時々どころじゃなく。かなり頻繁に、失礼な奴だ。

人を、人畜無害な草食動物か何かだと。勘違いしてるんじゃないのか。

あ、そうか。

だから、君は。この役割に、俺を選んだのか。

つか。そろそろ、本気で。ムカついてくるんですけど。

「いつか、刺されても。知らないよ。」

俺は。そんなこと、しないけど。

「ええ?物騒なこと、言わないでよ。」

だって。ありえないことじゃない。

すごすごと退散して行った、紳士連中が。後々、逆恨みしないとも限らないし。

ああいう奴らの中に。本気ものの変態が混じっている可能性だって、無いとは言えないし。

「それに、こんなこと続けて。俺との間に、変な噂でも立ったらどうすんの。」

「もう。とっくに、立ってたりして。」

「え。」

涼しい顔して、うそぶく君に。

思わず。間の抜けた返事が、出てしまった。

君は。大層、腹の立つことに。そんな俺の様子を見て、噴き出している。

「大丈夫だよ。噂は、噂。実際、俺といのちゃんとの間には。なんにも無いんだから。」

確かに。

やましいところなんか。これっぽっちも、ありゃしない。

当たり前だ。

俺は。隆一の、手札なんて。知り尽くしているし。

今更。おかしな関係に、陥ることなんて。

ありえない。絶対に。

だけど。

俺の前では。そんな振る舞い、露ほども見せない君が。

いったい、どんな顔で。紳士の皆さまに、媚を売っているのか。

気にならないと言えば。嘘になる。

草食動物にだって。好奇心はある。

探究心、と言い換えてもらっても。構わない。

それは。草食動物特有の。

誇りうるべき。習性なのだ。






隆一の住むマンションに、着いたのは。

赤く染まった、太陽が。あと少しで、その姿を消そうという頃、だった。

いつも通り。駐車場に、車を停める。

地下に滑り込んで。外の風景が、見えなくなって。

ほっとした。

この時間帯は、好きじゃない。

ずっと、昔。

こんな風に、まだ暑さの引かない。秋の、夕暮れだった気がする。

母親と、はぐれて。

泣きながら。家路を辿った。

あの日。

今となっては。現実か、夢なのかも。わからなくなってしまった。

そんな、子供の頃の出来事が。

記憶のどこかに。こびり付いているせい、なのかもしれない。

無性に、不安で。ざわざわして。

認めたくないけれど。

淋しい。気持ちになる。

いつもなら。大迷惑で、うんざりするだけなのに。

今日に限っては。君からの呼び出しを。

少しだけ。嬉しいと、思ってしまった。

ほんと、終わってるな。

こんな日に。独りで、いるよりは。

君なんかでも。傍にいてくれた方が、まし。だなんて。

そんなことを、考えていたら。

「お茶でも、飲んでく?」

君が。あまりにも、タイミング良く。

俺の顔を覗き込むようにして、尋ねてきた。

指先が。かすかに触れ合うくらいの所に、手を置いて。

これも。憎たらしいくらい。絶対、わざとなんだろうけど。

近すぎる。

隆一は。ことあるごとに、そうやって。

俺のことさえも。試すような、仕草を見せる。

自分の魅力を、知り尽くしている。君にとっては。

まさに、聖人よろしく。襲いかかる気配すら無い、俺の態度が。

どうも、近頃では。若干、ご不満らしいのだ。

でも。

最初に、俺を。草食動物認定したのは、君なんだから。

今更、そんな。矛盾した態度を、押し付けられても。

正直。いらつくだけであり。

だから。

「遠慮しとく。」

力の限り、ぶっきらぼうに。

「それと。離れて。」

隆一の肩を、押しやるようにして。

際どいくらいに、近付いた顔を。遠ざけた。

「いのちゃん・・・冷たいね。」

出たよ。

そんな、傷付いた眼をされても。

沈んだ声で、呟かれても。

陥落する、わけがない。

他の奴らとは、違う。

俺には、そんなもの。通用しない。

隆一は。観念したみたいに、息をついて。

助手席に、座り直すと。

うって変わって、今度は。挑むような、口調をつくる。

「いのちゃんさ。」

「なに。」

「どうして、俺に。何もしないの。」

なに、言ってんだ。

『何もしない』、なんて。

当たり前だ。

できるわけが、ない。

どうにか君を、喰らおうと。上っ面ばかりに、すり寄って。

実際、君の本質になんて。これっぽっちも、興味が無くて。

だから、当然。あえなく、返り討ちにされる。

さっきの、男みたいに。間抜けな、肉食動物と。

一緒に、してほしくない。

わかってる。

これは、挑発だなんて。頭の片隅で。

わかっては、いたけれど。

思わず。

「隆ちゃんは。何か、してほしいわけ?」

言葉に棘が混じるのは、止められなかった。

けれど。

君は、さっぱり。動じることも無く。

「今は。いのちゃんの話、してんの。」

無邪気さを、装って。追い詰めるなんて。

なんて。たちが悪いんだろう。

容赦のかけらも、ありゃしない。

何かした、と言うのなら。ともかく。

何も、しなかっただけで。断罪されるなんて。

なんで。

「なんで、俺が。」

「だって。」

隆一の、真っ黒な虹彩が。

俺の眼に。ぶつかるみたいに、近付いて。

ふたりを隔てていた、距離が。

あっという間に。

無くなった。

「いのちゃん。俺のこと、好きでしょ?」

何もかも。

見透かしたように、訊いてくる。

そんな、君に。

どうしようもないくらい。ムカついて。

なんだか、急に。

今まで、取り繕っていたものとか。

実際、既に破綻していた。ちっぽけな、プライドとか。

草食動物の、誇りとか。

あらゆるものが。どうでも、よくなって。

「好きだよ。悪い?」

半分、逆ギレ気味に。そう、返して。

君の頭を。片手で、無理矢理引き寄せる。

それから。

その、かわいくないくせに。ひどく、いやらしい唇を。

乱暴に。塞いで、しまった。








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