短編

□長月二十日のころ
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半月よりも膨らんでいるが、満月ほど満ちていない、長月二十日の月。
雲もまったくないわけではないが、決して月の光を覆うようなことはなく、暗闇にゆらゆらと浮いている。

クリミア軍陣営内を歩く若き長アイクは、特に灯りを持つわけでも目的があるわけでもなく、そんな雲のように月下を漫ろ(そぞろ)歩いていた。
もうどの天幕も寝静まっていて、あるのは月の光と気紛れに立てられた松明の灯りだけ。その松明の灯りも秋風に揺らされ、消えてしまっているものもある。それに月の光は空から届いてくるが、星の瞬きは薄い雲に隠されていた。

しかしアイクは自ら灯りを持つことはしようとしない。僅かに辺りが見える程度の闇が、今夜は心地よかったからだ。

「…?」

そんなアイクがふいに足を止めたのは、ある天幕の前。ぽつり、とその天幕だけ淡い光を宿していた。
確か、ここは彼女の天幕ではなかったかとアイクは不思議に思いながら天幕を見つめる。

よく見れば、中で女性が座っているような影が天幕に映し出されていた。その横顔のシルエットは確かにアイクの想像していた女のもので、アイクはその場から動けずに、少し離れた場所でただ見つめた。

普段どちらかと言えば機敏に動く彼女は、今は至極ゆったりと動いているようで。何をしているのかは分からないが、その影の動きは不思議とアイクを魅了させる。時々手を髪に滑らせたり、いつも目にしているはずの動作でも今はひどく神秘的にさえ感じられた。

気付けば、アイクの足は地を踏みしめながら天幕へと向かっていた。ざく、ざくと土をゆっくり踏み静かに近づく。

「…アイク?」

天幕の正面に来たところで、中の女の影がこちらを向いてそう言った。穏やかな声が天幕を通り抜けてアイクの耳に届く感触に、何とも言えぬ感覚がアイクの体を巡る。アイクも短く返事を返したが、中から女が出てくる様子はなかった。
布一枚隔てているだけなのに、こんなにも違うのかとアイクは思いつつ、向こうから見ても自分がそんな風に見えているのだろうな、とほくそ笑んだ。

女の影は少し首を傾げると、また横を向く。間近で見るその横顔はさらにアイクを惹きつける。
暫くそのまま静かに時は流れた。そして、さああ、と風が吹きフクロウがほう、と鳴くと女の横顔は再びこちらを向いた。何故か、微笑んでいる、とアイクは確信した。

「寒くないの」

闇に溶けるその美しい空気に誘われるまま、アイクは一歩踏み出す。
ひらり、と揺れた天幕に影が一つ増えた。

満月にはまだ満たぬ月が、ゆらゆらと揺れる雲の中で静かにその天幕へと灯りをそそぐ。

長月は、夜が長い。



長月二十日のころ

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