その他
□なんでだろうね
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そのときの奴の表情は容易に忘れられるものではないだろうと思う。
「…可愛い」
「……」
それはいつもの無表情だった。
普段武人から聞くことはまずないだろう台詞を呟くその声も、淡々としていていつもと変わらない。
しかし俺にはちゃんとそれが笑っているように思えた。
隙のない冷静さから滲み出た愛が、確かにそこにあるように見えた。
そんな堅い仮面に隙間を作るという策士は今、張遼の腕に収まっている。
「将軍、可愛いですな」
「…ああ」
とても本心から言っているようには聞こえない(だけで、本人からすればそれが精一杯の表現なのだろう)声が褒めたたえるのは、一匹の犬である。
そう、犬だ。
子犬ではないが、容易に抱き上げられるくらいの大きさ。
張遼に抱えられて気分が良さそうなそれは、ふさふさとした尻尾を振り、純粋さを秘めた丸い瞳で俺たちの姿を映していた。
可愛い、と繰り返して張遼は抱きしめる腕にさらに力を込める。
犬も嬉しそうに張遼の顔に鼻先を擦り付けていた。
とてつもない違和感が襲う。
味方すら震え上がらせる武を持つ男が、たかたが犬一匹に骨抜きにされている。
そう、戦場に立てば、肉塊の山を築き上げる男が。犬を抱いている。それはそれは愛しそうに。
「全く、犬にべた惚れとは…孤高の武人が、聞いて呆れるわ」
「私とて一人の人間。物を愛でたくなるときもあります」
「数多の人間を無慈悲に屠るというのに、一匹の野良犬を愛でる心はあるのだな」
むっとしたような返事に思わず笑みが漏れて、からかうようにそう告げた。
瞬間、時が止まったような感覚が襲う。
犬が鋭く、わん、と吠えた。
笑みを引っ込めて目の前の男の顔を見やる。
いつもの、何の変哲もない無表情。
ただ先程纏っていた微笑ましい雰囲気は何処かへ霧散したのか、欠片も感じられない。
「…張遼…?」
「……いえ」
何でもありませぬ。
無感情にそう言って、腕の中にいた犬を解放した。
先程まで甘えていた犬は怯えたように走り去ってしまった。
何かまずいことを言ってしまっただろうか。
ただ俺はただの日常的な会話としての冗談を吐いただけだ。その筈だ。
無慈悲に人間を殺めるのは俺とて同じだ。俺だけではない、孟徳も淵もみんな、呉の人間も蜀の人間も同じ道を歩んでいる。
その和やかな雰囲気を血生臭い冗談で粉々にしてしまったのが悪かったのだろうか。
「…すまない」
とりあえず謝る。俺のせいで気分を害してしまったことは間違いないのだから。
張遼は小さく首を振る。
それから、本当に何でもないのです、と言う。
「ただ、少し驚いたもので」
「驚いた?」
思わず聞き返した。それに対する返事はなかった。
ああ、逃げてしまったな。
やはり表情のない声でそう男は呟いた。それだけだった。
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