mini2
□朝顔
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君の部屋は一階で、ベランダの向こうには朝顔が蔓を伸ばしていた。こちらと向こうを区切る境に、朝顔は蔓を伸ばしていた。淡い色合いが、ぼんやりと記憶をさかなでる。
出会ったのはいつだったか、どんな印象だったか、どうやって仲良くなったか、いつから恋をしたのか、何もかもが思い出せない。僕にとって大事なことは、僕と君がほんの一時恋仲だったということだけだ。
君は喫煙者だった。ヘビーではないけれど、決して少なくもない本数を吸っていた。僕が喘息持ちだと言うと、君はベランダでタバコを吸うようになった。ベランダから戻った時に微かに香った煙の名残を思い出す。
あっけない終わりだった。電話一本で全て崩れ落ちた。
君が居なくなってから、僕はタバコを吸い始めた。君と同じ銘柄だ。慣れない煙に時々むせながら、ベランダで朝顔を眺める。
即死だった。歩道に突っ込んできた大型トラックも、ぐしゃぐしゃに潰れていた。その下から、鮮やかな色の血を纏いながら、君の腕は伸びていたらしい。
友人の居なかった君の遺品をどうするか、君の両親は困惑していた。借りていたアパート、家具、少ない洋服に大量の本。
僕は、まるで夢みたいだと思いながら、君の両親にそれら全てを引き取ると申し出た。君の両親は、困惑したままその申し出を受け入れた。
今では君の物は全て僕の物だ。
ベランダでぼんやり朝顔を眺めながらタバコに火を点ける。
君と過ごしたほんの一瞬でも思い出せれば、と願いながら煙を吸い込む。
頭の中に靄がかかったみたいに、君との日々は思い出せない。
昨日の天気は何だった?君の好きな本はどれだった?先週は雨が降った?君が着ていたシャツは何色だった?
思い出せない。
ぼんやりと朝顔を、蔓を、眺めながら君の腕を伝った血の色を思う。
君は朝顔になったのだ。
煙にむせて咳き込みながら、これは中々良い思いつきだと自画自賛する。
君の居なくなった部屋。今では僕の住んでいる部屋。君の吸わなくなったタバコ。今では僕が吸っているタバコ。こちらとあちらを区切るように伸ばされた蔓、血。
一瞬、朝顔が鮮やかに煌めいたような気がした。