空式恋愛

□青と始まりまで
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一体何度座敷とパントリーを往復しただろう。
予算はいくらなのか疑いたくなるくらいの量の注文が、止めどなく続いた。
やっと一段落ついたのはラストオーダーの三十分前で、おしぼりの補充に向かった時だった。

「あ」

思わず漏れた声に、自分自身が一番驚いた。
トイレの前の壁に背中を預けていたのは、座敷の一番端に座っているはずの彼で、無表情で携帯の画面を凝視している。

「篠崎ー!」

無意識に足が止まっていたのは僅か数秒。
後ろから見事なまでの千鳥足で歩いてくる女性は、明らかに青い髪の彼を呼んでいた。

「何やってんのー」
「携帯、見てた」
「早く戻ってきなよー」

女性はそのままトイレのドアを潜り、篠崎と呼ばれる彼はパタンと携帯を閉じて俺の横を通り過ぎた。

「はぁ」

小さく聞こえた溜息は、未だざわめく座敷から聞こえる楽しそうな声とは間逆のもので、思わず振り返ってしまった。
篠崎。初めて聞く名前だ。

「ドリンクお願ーい!」
「はいよー!」

伝票と共に置かれていたのはオレンジジュースで、きっと“篠崎”の物だろうと何故か解ってしまった。
随分落ち着いてきた四つの机の上に、誰のものか聞きもせずに、篠崎の前に置かれたコースターの上にオレンジジュースを置く。
よくよく見てみれば、何故か篠崎の座る机に、食べ物の残った皿が集中している。
そしてあれほどの伝票の数と、彼が一番端の席に腰かける意味を理解した。
今までは見逃していた、篠崎の横に綺麗に積まれた空の皿に、自分と比べても随分薄い体の一体どこに、それほどまでの食べ物が入るのか不思議に思う。

「こちらお下げします」

篠崎は一瞥もせずに箸を口に運ぶ。
彼の取り皿の半分を覆うパセリの山が、彼がこれら全てを胃の中に納めた何よりの証拠だった。

「待って、これも」

そして初めて掛けられた声は、やはりどこか擦れて聞こえた。
皿を置く腕も、白く細い筋が浮いたもので、人より鍛えた自分の腕と比べると一回りも小さい。
これが胃下垂とかいうやつなのだろうか。
都会にはいろんな人がいるのだ、何故か見当違いなことが頭に浮かんだ。



「お客様お帰りでーす」
「ありがとうございましたー」

きっちり閉店五分前まで居座った彼らは、二次会の相談をしながら店を出て行った。
カラオケか、ボーリングか、様々な声が飛び交う中、篠崎は先ほどと同じように携帯の画面を見つめていた。
髪の色といい、あの食欲といい、変わった奴なんだ。
今日初めて知った名前を記憶に留めるくらいに、それらの印象は自分にとって強すぎたのかもしれなかった。





 
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