Novel3
□バイオロジック症候群
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細胞分裂が止まるということはつまり、死を意味するらしい。
今現在もぞくぞくと増殖を繰り返す自分の細胞を想像したら、寒気がした。
細胞とか原子とか、そういう肉眼で見えないものでこの世界が構成されているという『真実』を知らないままでいられたら、どんなによかっただろう。
この透明なガラスのコップはケイ酸塩、コップ中身のスポーツ飲料はナトリウムにカリウムに必須アミノ酸、ロイシン・イソロイシン・アルギニン・バリン。横文字ばっかり。あぁ、なんてつまらない世界なんだろうか。
世界は原子、すなわちアトムでできている。そんなことをのたまった遠い昔の哲学者の名前がどうにも思い出せない。
プラトン、じゃなくて。パスカル、でもなくて。
「孔辺細胞見てると、なんかムラムラしない?」
「…なんで」
「突っ込みたくなるから」
「何を」
「ナニを」
「死ね」
生物図説、と書かれたやたらと大きな本をぺらぺらめくりながら、何気ないことを呟いた。 哲学者の名前は結局思い出せないまま、俺は頬杖を付く。
そしたら案の定、ペンまわしをしながらスナック菓子をかじってる友人は心にも無い言葉を返してきた。
厨房横の細い廊下を抜けてさらに奥にある、店員の休憩部屋。マコトと俺はそこで昼食休憩をとっている。
俺のハーフタイムは残り十分ほど。時間的に、きっと今度はアフタヌーンティータイム地獄に放り込まれる。
それに対し、マコトはさっき休みに入ったばかり。余裕の表情だ。
「ひどいなー。俺がほんとに死んだらおまえ、どうしてくれんの?」
「泣いてやるよ、一応」
ああそうですか。
本当に泣いてくれるのかどうか疑わしい口調でそう言うと、マコトはぺらっと店舗日誌のページをめくった。
今日の当番がマコト、ということは。明日は俺の番か。
「ケン、おまえさっきから何読んでんの」
「生物の資料集」
「あー、明日からテストだっけか。やだやだ」
大学で、俺は動植物のDNAをいじったり、畑の真ん中でキュウリやトマトをもいだりというような『勉強』をしている。
実習と実験重視の授業だから、定期試験になると非常に憂鬱だ。じっと大人しく座って文字を書くことは、好きではない。
「なあケン、今日一番売れるメニュー、何だと思う?」
「今からそれ書くのかよ。カオルさんに怒られるよ」
「俺も明日からテストなんですー。さっさと書いて早く帰りたいんですー」
「・・・アロエゼリーじゃね?昼から数えて軽く十個は運んだ気がする」
アロエ。ユリ科でCAM植物。乾燥に耐えるため、昼間は気孔を閉じて夜中に呼吸と蒸散を行う、賢い植物。
そう、夜中にだけ気孔を開く。夜にだけ、水分たっぷりのぽってりとしたくちびるを開けて、ひそやかに息を吐き出すのだ。
「・・・やばい。もうやめよ。どうにかなりそう」
「おう、そうしとけ。ケンが勉強してるの見てると、こっちまで気持ち悪くなってくる」