【書庫】

□余韻嫋々
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まだ二桁に満たない年齢だった自分の首に幼くして懸けられた懸賞金は、その齢に対して余りにも不釣り合いな高額さ故に瞬く間に広く世間に知れ渡り、それに因って独り歩きを始めた名前は逃げても逃げてもロビンを追い掛けて来た。
自分の知名度が不名誉な上がり方をすればする程、今は無き故郷の島に対する世界政府が故意に植え付けた間違った解釈は、世の中の何も知らない人々の間に自然と広がり続け、いつしか付けられていた通り名や自分の名前に纏わる全ての事が煩わしくて堪らなかった。

いつか必ず成し遂げると決めた自分と故郷の学者仲間達が命を懸けた夢の実現の為に、何としても生き延びねばならなかった幼い自分が年と共に重ねて行ったのは、他人を欺き裏切り陥れ命を奪われる前に奪うという心を削ぎ落として行く様な行為の巧妙さばかりで、だからいつの間にか自分はすっかり忘れてしまっていたのだ。
逢いたくて逢いたくて逢いたくて、もし次に逢えたら今度はずっと側に置いて欲しいからと、必死に勉強して考古学者にまでなった程に逢いたかった顔も覚えていない母親と漸く出逢えたその時に、彼女から貰った強い腕の力と愛おしむ様に呼ばれた己の名前が持っていた響きを。

最初の内はあんなにも毎日の様に思い出していた大きな友人から教えて貰った独特な笑い方と、恐らくは母が唯一自分に与えてくれた目に見えて残っているものだろうこの名を口にした時の彼女の声の余韻を、月日が経つに連れてロビンは余り記憶の奥底から呼び覚まさなくなって行った。
だから余りにも長年に渡って闇の世界に身を投じ続けて来た所為で、休まり方を忘れてしまった心身が壊れない様にと防衛本能が麻痺させた様々な感覚が、あの時もう既に消え始めていた故郷の島で母と過ごした刹那の時間にどれ程の奇跡が起きていたのかという事を、改めて自分に考させる事すらしなかったのだ。



けれど、今は──。





「私…あの子達に出逢って初めて知った事が、沢山あるわ」
「ああ、おれもだ」

ブランコの板を無事に外し終えたフランキーが、複雑に絡み合っているロープを片方ずつ解きながら相槌を打つ。

「当たり前の様に私を呼んでくれる誰かの事を私も呼びたいなんて、今まで思った事無かったの」

両方のロープを何とか木から解き終わり、垂らした先に再び板を括り付けるべく芝生甲板に胡坐を掛いた彼を追う様にして、ロビンは自らもその場に屈み込んだ。





そう、今ならば──いや、今になってからだからこそ、解った事が山程ある。
自分が名を呼べば、真っ直ぐに応えてくれる誰かと日々共に在れるという現実。
その誰かにも当然の如く名を呼ばれ、応える様に求められるのが他の誰でもないこの自分だという事実。
そしてその誰かは自分にとって命を懸けても良い程大切な人達で、相手も自分の事をそう思ってくれているという幸福。
そんな『今』が今や自分の『当たり前』であるというこの状態を、奇跡と呼ばずして一体何と呼んだら良いのだろうか。

それもこれも全ては、一回り程も年の離れた彼らが身を以て教えてくれた事だ。
もしもこの一味に入らなければ、きっと自分は一生この感情を知る事すら無いままに今生を終えただろう。
何故ならばたった一人、ただその人の事だけを指す彼ら自身の名を呼びたいと。
出来る事ならばこれから先ずっと、共に海を渡り側で呼ばせ続けて欲しいと。
生まれて初めて母以外の人間に対して執着を覚え、心の底から強くそう願ったのは。



命に替えても守りたかったその彼らが、一度は死ぬ覚悟を決めた自分に生を求めてくれた、あの島だったから──。





「それまでの呼び方を急に変えるのは、私の中ではちゃんと理由があったからこそ少し勇気が必要だったけど…」

只の人間には到底無理な力を込めて、板の両端に空いている穴に通したロープを裏側できつく結んでいるフランキーの手元を眺める。

「変わったのは私の方だけで、彼らの呼び方は最初からずっと変わってないのに…不思議ね」

片方を終えて残るもう一方を結び始めたその大きな手は、見た目に似合わずとても繊細な仕事を正確にこなす職人の手だ。

「あんなに嫌だった自分の名前も、今は好きだと思えるの。どうしてかしらね?」

しゃがんだまま両手で頬杖を突いてくすりと笑えば、それと同じタイミングで彼の手から放された見慣れた姿のブランコがゆらゆらと前後に揺れた。

「良し、終わり。そりゃおめェ、おめェが知らねェだけであいつらも変わったからだよ」
「え…?」

然も当たり前の事の様に告げられた思い掛け無い言葉に面食らっていると、ちょっと座ってみろとブランコを指差されて言われた通りに腰を下ろす。

「『アレ』の前と後とじゃ、おめェに対するあいつらの想いだってそりゃあ変わるだろうよ」
「…どうして?」

座り心地を確かめつつ不具合を確認する為に少し漕ぎながらそう尋ねると、フランキーが呆れ顔で立ち上がった。

「おめェなァ…おめェらお互いの為に命懸け合ったんじゃねェのかよ。その後の付き合いが、その前までの深ェ所まで踏み込まねェ付き合い方と同じな訳無ェだろうが」
「──」
「おめェがあいつらの名前を噛み締めながら呼んでるみてェに、あいつらだって前までとは違う気持ちでおめェを呼んでんだ。だからおめェが自分の名前を好きになれたのは、それが届いてる証拠なんだよ」

想像もした事が無かった角度からの客観的な意見に、相槌を打つ為の簡単な言葉すら咄嗟に何も出て来ない。

「まァおれはとっくの昔に本名なんか捨てちまったクチだから偉そうな事ァ言えねェが、おめェの名付け親だってあいつらみてェに想いを込めておめェの名前を呼んでた筈だと思うぜ」

そう言って太陽の下で笑った彼の顔を視線の先に捉えたロビンは、初めてフランキーの存在を知った日の事を思い出した。
 
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