【書庫】

□掌の温度
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瓶から直接酒を煽りながら何とは無しに水槽を見上げていたら、突然背後から「おい」と呼び掛けられた。
扉を開閉する音は疎か、気配すら感じなかった事に多少の驚きを覚えつつも、声の主である男の管轄内で勝手を働いた事を咎められるのかと一瞬身構える。
けれど実際耳に届いた彼の声色は思いの外平坦だったので、何食わぬ顔で振り向きながら「何だ」と返した。

視線を巡らせた先で目に映ったのは予想通りの金と黒で、しかし一本分の空きが出来たワインセラーと向き合っていたコックは、此方に背を向けている。
その後ろ頭が何の前触れも無く唐突に「膝枕してやろうか」と告げたので、ゾロは訳も解らずただ反射的に「おう」とだけ答えた。





   *   *   *





こういう時のサンジは、普段の彼を全く連想させないくらい只管に静かだ。
突拍子もなければ何の脈絡もない彼のこうした行動は、何も今に始まった事ではない。
だから意図は見えなくとも逆らわずに彼の好きにさせておく事が、今は一番良いのだという事をゾロは知っていた。

生簀に繋がる蓋から差し込む微かな陽射しに透けて、チカチカと光る金髪越しに水中を優雅に泳いでいる色取り取りの魚達をぼんやりと眺める。
延々と続く沈黙にこのまま眠ってしまおうかと瞼を落としかけた所で、ずっと無言で目を伏せながら指先でゾロの短髪を弄んでいたサンジが、ふと口を開いた。

「ゾロ」
「…あ?」
「お前こないだの雑魚海賊の敵襲ん時、ウソップの事庇ったろ」
「……」
「そん時、右脚やられたよな」
「……」
「な」
「…ああ」
「でもソレ、チョッパーにも誰にも言ってねェよな」
「……」
「おれがこっそりキッチンに常備してる救急箱、最近中身の減りが激しいんだけど」
「…ちゃんと買って返す」
「そういう事言ってんじゃねェよ、バーカ」

常ならば憎たらしい言葉の割に響いた声音は柔らかく、其処に悪意が無い事を証明する様に穏やかな表情で男が笑う。
太股に預けた頭を心地良い体温が優しく撫でる感覚に、ゾロは彼の起こした全ての行動が意味する所を悟った。



嗚呼、何だ。
それならそうと、もっと早く言ってくれれば。



「おい、コック」
「んー?」



「ちょっと寝かせろ」





幾らでも、甘やかされてやったのに──。





「…良いよ」



目を閉じて口元に笑みを浮かべたサンジの答えを嚥下して、ゾロは自らもゆっくりと瞼を降ろした。
一定のリズムで髪の毛を梳く様に撫で続ける掌の温度が、浮遊感を伴って快い微睡みを連れて来る。
ふわふわと気持ちの良い眠りに誘われるままに意識を手放し始めながら、ゾロは今自分にのみ与えられている『サンジ』の感覚だけを追い掛けた。





もし仮に彼が今、自分に対して心配などというものをしているのだとして、それでもそれらしい事を何も言わないのがこの男だ。
一見それとは解らない程度に簡素で、本当に必要最低限である治療用具を密かに隠し持っている辺り、自身も人の事をとやかく言えた義理ではないという自覚が少なからずあるからだろう。
けれど解っていながらただ黙って見過ごしておく事が出来ないのは恐らくは彼の性分で、それが若干解り難い形ではあるが時々こういった行動になって露見する。

これまでも何度かあった筈の、これからも幾度となく巡り会う事になるだろうこうした場面に於いて。
物事を深く掘り下げて考える事が苦手な自分が、到底その意味を理解などしている訳が無いと高を括っているに違い無い彼の予想を裏切って。
本当は全てを知った上で甘んじて好きにさせているのだと、もしもいつか馬鹿正直に彼に告げる事があるとしたならば。
その時誰よりも天邪鬼なこのコックは、一体どんな顔を見せるのだろう。

それはとても興味深く魅力的な誘惑で、一度しかお目に掛かれないその反応を見てみたいという衝動に駆られはしたけれど。
わざわざ自らの手で壊さずとも刹那だと知っているこの一時が、もう二度と訪れないのは絶対に御免被りたかったので。
きっと自分は一生それこそ死ぬまでずっと、彼には真実を伝えないだろうとゾロは思った。





ただ静かに眠りの深淵へと導く温かい掌が、自分に齎す安らぎを享受しながら。
彼に甘やかされる事で、彼を甘やかす事の出来る人間が。
この世界に自分一人だけならば良いと、そんな事を考えた。






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