猫とつばめとアートルーム

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 ゆっくりゆっくりゆっくりゆっくり……じれったい速度で時間は刻まれる。
 でも、とうとう時計の針がかちっと音を立てて、ずっと待ち望んだ時刻を指し示したとき──私は心のなかで歓声を上げた。
 さあ、放課後だ。
 一日中シャーペンを握っていたせいですっかり凝ってしまった肩も、嬉しさのあまり軽くなる。私は急いで荷物をまとめると、教室の廊下に飛び出した。

 私、青野つばめは今年の四月に高校三年生になった。それは同時に受験生になったということで──地元でいちばんの進学校に通う私はますます勉強にしばりつけられるようになってしまった。
 その欝屈を吹き飛ばすために、私は部活に夢中になっている。
 とは言っても、引退試合に命を懸けるような運動部に所属しているわけじゃない。体力も根性もない私がきつい思いをしてスポーツに専念しても、勉学にプラスしてストレスを溜めることになるだけだ。
 私が部長を努めるのは、美術部だ。

 美大を目指している熱心な部員も熱心な顧問もいないので、我が美術部の活動内容はいたってゆるやかなものだ。いや、ゆるゆるだ。
 美術室は後者のいちばん隅っこにある。美術室の隣には準備室があって、美術部はそこで主に集まる。こにこしながら私はその扉を開けた。
「ヤア、つばめ殿。たった今お湯を沸かしたところなのです。今日は何にしますか?」
 既に教室の先客がティーバッグをちらつかせてきた。隣のクラスの友人、姫川聖──通称ひーちゃん。小柄な色白の女子で、ちょっと茶色がかった瞳が印象的なかわいい子。……なのだが、奇をてらったていねいな言葉遣いが風変わりだ。私を「つばめ殿」と呼ぶのも彼女だけ。おもしろいので私はひーちゃんが好きだ。ちなみに、彼女は美術部の副部長だったりする(というか、三学年の部員は私とひーちゃんの二人しかいないのだ)。
 美術室に置いてある携帯ガスコンロの上で、薬缶がしゅんしゅんとここちよい音を奏でている。私は鞄を置き、椅子に腰かけてひーちゃんに微笑んだ。
「今日のお茶はアップルティーにしようかなー。ひーちゃんは?」
「私はレモンティーなのです。で、今日のお菓子はこれなのです……朝から美術室の冷蔵庫にしまっておいたものなのです」
 ひーちゃんはにっこり笑うと、白い箱を取り出した。
「母上がまた新しく『作品』を作りましたので、味見をお願いされたのです」
「わ、わあ、ひーちゃんのお母さんの新作!? やったあ、すごくおいしそう!」
 私は欣喜して箱を覗き込み、二つのフルーツケーキが輝いて鎮座しているのを見た。ふわふわもちもちのスポンジに薄ピンクの生クリームが塗られて、つやつやした桃やメロンなんかが載っている。
 ひーちゃんのお母さんは小さなケーキ屋『てんとうむし』を営んでいる。創作菓子を作ると必ずひーちゃんと私に味見してもらい、メニューに出すかどうか決めるのだ。
 ひーちゃんの持ってきた『てんとうむし』のおいしいお菓子を紅茶とともにいただくのは、美術部の活動の一環になっていた──というより、これがメインになっている。

 私たち美術部はお菓子を食べて紅茶を飲んで、おしゃべりをしながら過ごす。たまに落書き程度のイラストは描くが、遠近法を練習したり石膏デッサンをしたり静物や人物を描いてみたりはしない。
 最後に木枠に布を張ってキャンバス作ったのっていつだっけ? というぐらい、美術活動していない。
 ちなみに私が最後に油絵を描いたのは、ひとつ上の先輩が卒業する前だ。先輩がいた頃はもう少しまじめにやっていたのだが……。私とひーちゃんが美術部を引き継いだ後、新入生はまったく入ってこず、二人だけになってしまった。だからこんなにゆるーくなったのだろう。
 周りからは廃部寸前と言われる。
 罪悪感はあるものの、なんとかしようという気力は沸いてこない。
 今が楽しいならいいじゃないか、と思ってしまう。受験の現実逃避なんだろうけど……私のエゴで美術部を潰すのはずるいのだけれど。でも。
 ──どうしようもないじゃないか。
 部を再興しようと思う情熱も時間も方法も、私は持っていない。

 その時、私は知らなかった。
 流されるままに自堕落な日常を過ごす私を、壊滅的に追い込む存在が現われるとは思っていなかったのだ。


 To be continued...




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