猫とつばめとアートルーム

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 翌日、私は美術室に行かずに家に帰った。
 自室で勉強もせずに鬱々としていると、ケータイに電話がかかってきた。
『つばめ殿。ちょっと聞いてもらえませんか』
 ひーちゃんからだった。
『私がなぜ美術部に入ったのか、知っていますよね』
「……うん。文芸部がなかったからだよね」
『そうなのです。私は小説が書きたかったのですが、文芸部はないと知ってそれならばと創作系の美術部に入ってみたのです。小説の同好の志は得られませんでしたが、その代わりにつばめ殿に出会えたのです。私は幸せでした』
「ひーちゃん……」
『この間、東翔太郎から問われたのです。どうして美術部に入ったのかと。私は考えてみました。そして気づきました。私はもう小説家になるという夢を諦めていたのです』
 ひーちゃんの声は震えていた。
『不思議なのです。東に言われてからその後、私はずっと小説家の夢について考えているのです。もう私は受験で、医学系の大学に進むつもりで、看護士になるつもりだったのに──高校一年の時に押し潰した、昔の夢が頭に浮かんで離れないのです』
 どうすればいいのかわからないのです、と彼女は問うた。
 私は苦笑する。
「東って本当に迷惑なやつだよね。そんなこと言って、ひーちゃんや私の意識を変えちゃって」
『つばめ殿も……?』
「私も東に言われて思い出したんだ。どうして私が絵を描きたいと思ったのか」

 小さい頃から、絵が上手なわけでも好きなわけでもなかった。
 好きなのは猫だった。
 中学生の時に飼っていた黒猫を、私は愛していた。彼はいつも昼寝していて、ご飯が大好きで、のびのびと暮らしていた。
 だから、猫は死んだ時の私の落ち込みようは半端ではなかった。ろくろく食事も喉を通らず、いつも気分が塞いでいた。夜にあまり眠れていないような状態の私を両親は心配したが、こればかりはどうしようもなかった。時間の経過が傷を癒してくれるのを待つほかないと、私は高校に入学して夢中で勉強した。英単語を覚えたり数式を解いている間は猫を忘れられた。でも、楽しくはなかった。
 そんな時、美術部の先輩に出会った。
 校内の渡り廊下の壁にかけられた美術部の絵を眺めていた時だった。
 その油絵はさわやかな森林を描いたもので、とてもきれいな色が使われていた。あまり見たことのないほどきれいなモスグリーンだったのでぼうっと見入っていたら、上級生の女子に肩を叩かれた。
「そんなにずーっと見られると、照れるね。そんなに気に入ってくれた? あたしの絵」
 彼女は私に美術部に入らないかと言ってくれた。とりあえず見学してみてよ、と連れられて行った美術室で、私は油絵の描き方を教わった。
「つばめちゃん。描きたいもの、ある?」
「描きたいもの……」
「絵は技巧よりも何よりもそれが大事よね。描きたいって気持ち。何かを表現したいって気持ち。自分の好きなものでも、嫌いなものでも、何でもいいんだよ」
「悲しいことでも……?」
「うん。嫌なことも悲しいことも。全部、つばめちゃんの思い出でしょ」
 私は飼い猫を描いた。あの子のあのふわふわした毛並み、ゆるみきった体つき、ころころ表情を変える瞳、すべてを描き出してみたくなったのだ。
 木枠に布を張り、キャンバスに絵筆を走らせた。パレットに絞り出された艶のある油絵具は、色を変え形を変えた。

 今でも覚えている。
 猫の絵ができあがった時の、あの達成感。爽快感。悲しみは絵具に溶けて混ざり、思い出としてキャンバスに写し取られた。
 そして同時に──ニスや油絵具の匂い、木製の机と椅子の匂いが混ざったあの独特な美術室の空気が、私は大好きになったのだ。

「思い出したんだ。美術部って、そういう所だって」
『つばめ殿……』
「私、東にひどいこと言っちゃった。謝らなくちゃね」

 気分はいつの間にか晴れていた。


 To be continued...




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