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□呪歌
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古から続くものがある。それは、溢れる音の奔流だという。
呪歌
風に乗って微かに流れてくるものがある。
それは鳥のさえずりか、それとも小川のせせらぎか、余りに小さく微かなそれは完璧に世界に溶け込んでおり、それを表現する言葉を捜すことは難しい。それは全てを包み込むように広がり、溢れ、そして初めから何もなかったかのように消えていく。音なのか、気配なのか、音楽なのか、存在なのか、それさえもわからないが、それは確かにそこにあり、いつの世にも流れているものだ。
ルックは右手に宿る紋章からちりちりと焼けるような痛みを感じ、読んでいた本をぱたんと閉じた。
紋章同士の共鳴ほど強いものではないのだが、それに似た、したたかな力。今まで感じたことのない異様な感覚にルックは眉間に皺をよせ、慎重に周囲を探ったが、人の気配も紋章の気配も感じられないし、何かの敵意を感じることもない。周囲に特に変わったことはないようだが、未だに紋章を宿す右手は疼いている。
せっかくの休みだというのに、なぜこうも厄介ごとが己の身に降りかかるのだ、とルックは内心毒づいて舌打ちした。
今度は静かに目を閉じて右手に意識を集中させ、神経を研ぎ澄ませて風に己の意識を乗せる。
少しの静寂の後、風の導きにより耳に僅かな何かが届いた。包み込むように大きく、しかし今すぐにでも消えていきそうなほど微かな、あまりにも曖昧な何か。
「…音?いや、歌か。」
ルックはふと風に乗って流れてきた何かを、なんとなくではあるが歌だと思った。それが音であるかどうかも分からないと云うのに、そう、歌だと思った。
ルックは改めて周囲を見回した。
ここは森の奥深くに隔離された、テレポートなどの特殊な方法でしか来られないはずの場所だ。いや、来ようとすればそれ以外の方法でも来ることはできるだろうが、今日ここに来た時には人の気配はなかった。無論今も感じることは出来ない。
せっかくの休日なのだから、面倒に巻き込まれそうなことは放って置けば良いのだが、好奇心には勝てず、立ち上がりゆっくりと歩き出す。
不自然なほど自然に流れるそれは、あまりのも当たり前にある日常のようだな、とルックは思う。自分が風の加護を受けていなければ、絶対にそれに気付くことは出来なかっただろうと思うほど、それは異常で異様なものだった。
静かに、音を立てないように慎重に歩く。あてはないが、そこに行けばいいのだと風が告げてくれる。
歩けば歩くほど、全ての気配が消えていってしまうような錯覚に陥る。
普段ならば動物たちの鳴き声や気配が当たり前のようにあるのだが、それが全く感じられない。木も、自然そのものの気配さえもだ。今では己の足音や呼吸音でさえ遠く、感覚として知覚することすら難しい。
そこで思う。ああ、これは消されているのか、と。
ルックは今一度静かに目を閉じ、全ての神経を研ぎ澄ませ、口の中で以前一度だけ目にした古代の文を詠唱する。
確か、そう、あれは祈りの文だった気がする。心の底からすべてのものに祈りを捧げるために書かれた、呪文。
それが記載されていた文献によれば、真摯な祈りは大気を震わせ、すべてのものを呑み込んで消えていくらしい。
以前まではまったく信じる気などなかった話だが、今感じているものをそれだと仮定するならば、あり得るのかも知れない。
右手に宿る紋章、真の27の紋章を世界を司る神の一部だと仮定するなら、その神が反応するものは、同属の神か、あるいは己に対する祈りのみだ。
そうして感じることの出来たものは膨大な音の奔流だった。
これは、祈りという名の詠誦、いや、詠唱が響き渡り、それが全てを呑み込み、他全ての音が消されているのだ。はっきりと聴こえないのに、圧倒され、呑み込まれてしまいそうなほどの音。怒濤のように溢れ出る、音の洪水。
「………っ、これ以上は無理か。」
それ以上それを感じていたら本当に呑み込まれ、己の自我までも侵されそうだ。
「魅力的、というにはあまりのも恐ろしいね。既に呪いの類か。」
そう呟いた瞬間、それはふっと小さくなり、音として認識する前に霧散してしまった。
それと共に今まで掻き消されていた森の気配がどっと溢れ出し、消えていた音も耳に届いてくるようになった。
そしてルックはその中に慣れ親しんでいるものを見つけ、全てを理解した。そう云うことならば合点がいくのだ。
ルックは楽しそうに笑って、そこへ行くために歩き出す。
向こうは既にルックの存在に気付いているのだろうから、彼は全てを楽しむようにゆっくり歩く。
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